2009年12月22日火曜日

MTF学生は卒業式にスカートはだめよ

「MTF学生は卒業式にスカートはだめよ」
     (Bangkok Post 12/22記事より)

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タイの大学学長協議会の会合が昨日月曜日に開かれたが、学位が授与される大学の卒業式には男性から女性へのトランスジェンダー自認の学生は、女性の服装で出席することは認めないという決定がなされた。

協議会の議長を務めたチュラロンコーン大学学長のピロム氏によれば、全国23の国立大学(現在は日本と同じ独立行政法人)の学長は、卒業生は普通の制服で出席すべきであり、従来からの規則を変更はしないことに同意した。これは、トランスジェンダー団体から大学当局に対して、性転換症を自認する卒業生には女性の服装での出席を認めるよう要望が出されていたからである。

ピロム氏によれば、教室での授業には服装の自由は認めているが、卒業式で学位を受領するには式典にふさわしい服装をして、社会の秩序に敬意を払うべきであるというのが見解である。

「私個人としては、他の学長たちは彼らなりの見解を表明する権利がある、と認識している。チュラロンコーン大学では、大学の品位をそこなわない限りは教室での服装にはあれこれと干渉はしていない。それは、大学も学生たちの権利を尊重しているからです。」

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タイの田舎の高校で、トランスジェンダーを自認する生徒のために「男」「女」とは別のトイレを用意したニュースを以前の投稿で紹介しましたが(2008/07/09)、チュラロンコーン大学のような有名大学の方が遅れているのは驚きでした。

このニュースには読者の投稿がかなりありましたが、ご参考までに三人の意見だけ紹介しておきます。

● 現在のタイ社会ではジェンダー問題の理解が混乱してきている。この学長の発言にある、「個人の見解の尊重」という言葉にしても、学長にしては幼稚な発言で、多くのタイの若者の間にジェンダー意識の混乱が起こっているのはなぜなのかという問いには問題意識をもっていない。タイではホルモン治療は簡単に受けられるし、若者がまだ自分を理解してない段階で性転換手術を受けてしまう。性転換手術がどういうことなのか、そのもたらす結果を理解できる前に一生を左右する決断をしている現状がある。悲惨ともいえる結末を迎えるケースが数多くあることにもっと焦点をあてるべきだ。

● このような無知な学長たちが教育者であり、思想界のリーダーであることは、タイの将来に希望がないことであり、暗澹たる気分になる。他の国の高等教育機関は、科学分野や社会現象の理解を深めるために、社会を啓蒙する役割を果たしている。タイではその反対である。「他の学長たちは彼らなりの見解を表明する権利がある」というのが、その典型である。トランスジェンダーにとっては、科学的研究と発表されたその成果は、至るところで知ることができる。かれらにとっては、ジェンダー意識の自認や表現は単なる「個人的な見解」なのではないのだ。これら学長がこのような簡単な事実さえ知らずにいるとすれば、由々しき問題である。

● 悲しい現実だが、学長たちはMTFのトランスジェンダーに男の服装をせよというのは、普通の女性に男の服装をせよ、というのと同じことだと理解できていないことだ。タイでは憲法改正の機会があったときに、第三の性を追加しておくべきだった。明らかに、世間にはTSを理解できない人たちがいるが、TS自身は自分の状況は理解しているはずだ。人間の権利として自分の望む服装をする自由があってしかるべきだ。これはまた大学当局による卒業する学生たちの人間性への侮辱でもある。なぜなら、卒業証書を授与されるときに撮られた一枚の写真はその後何年も何年も心のきずとして残るだろうから。

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私見ながら、タイの大学と例と同じく日本でもTG/TSが広く理解されているとは思えません。ゲイ、クロスドレサー、ニューハーフ、オカマ、などの言葉がTSとごっちゃまぜで使用されていて、ますます世間一般の理解が混乱してきている感じがします。日本のテレビや雑誌をはじめとするマスコミや、インターネットでもいいかげんな用語が乱用されているのは問題だと思います。

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2009年9月13日日曜日

タイの性転換の年齢規制


タイの性転換の年齢規制よりきびしく

9月11日のタイの英字紙THE NATIONの記事をご紹介します。

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性転換規制11月29日より強化される

タイ医療協議会の理事長ドクター・サンパンが9月11日発表した内容の趣旨は、トランスジェンダーの人が性転換手術を受けるには18歳以上でなければならない、という規則を厳密に適用することにするというものです。

トランスジェンダーで18歳から20歳までの当事者は親の同意が必要であるが、20歳以上なら当事者個人の判断で決めることができる。しかし前提事項として精神科医の診断書、ホルモン治療を受けていること、一年以上女性として生活していることが性転換手術の必要条件になる。

また、性転換手術を行う医師はタイ医療協議会に登録すると同時に、術後の合併症などの治療まで責任をもって行うことが要求される。

このような規制は性転換手術の水準を高めるためであり、規則を破る医師には警告だけにとどまらず、医師免許剥奪などの処置をとることもありうる。

タイトランスジェンダー女性の代表であるヨランダ・スワンヨットさんは、この新しい規制には賛成であるが、内務省、外務省、法務省などの他の関係省庁も関連する法律を改正して、性別を男性から女性に変更できるように法改正を行うべきであると主張している。

「性転換手術を受けたあと書類上の性別がMr.からMissに変更されるようになれば、もっと尊厳をもって女性として生きていくことができる。IDやパスポートを見せるたびに自分が“レディーボーイ”であることを説明しなくてもよくなるのです。普通のひとたちと同じように尊厳をもって生きたいのです」とヨランダさんは言う。


      (男性記載のままのIDカードを見せるTS女性たち)

法務局の調査官サームキアット氏は、トランスジェンダーのグループが結束して独立機関である国家人権委員会に、民法、刑法、戸籍、相続法など関連する法律改正にむけて助力を要請するのが早道ではないかと提案している。

サンパン医師も同じ意見で、関係する省庁が“第三の性”の市民のための特別法を制定するように希望していると述べている。

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タイでは12歳ごろからホルモン治療を始めるTJも多いため、18歳前にSRSをこっそり済ませてしまうケースがあっても不思議ではないです。今回の年齢規制強化の背景にはそのようなタイの“すべては自己責任で”という、おおらかな社会背景があるように思えます。

07年10月7日の投稿でも取り上げたように、タイでは“レディーボーイ”や“カトーイ”として社会的な認知度は高く、都会、田舎を問わずその存在は一般的に知られていて、とくに差別意識が国民の間にあるようには思えない。しかし、法的な面での整備はまったく行われていないのが実情で、2年前の状況から何も変わっていないようです。性転換手術では世界でも指折りの先進国であり、海外からの手術希望者も多いという反面、タイ国民への人権保護がほとんどされていないというちぐはぐさは、これまたタイ人のおおらかさでしょうか。

とはいうものの、日本でも「性同一性障害者性別取扱特例法」にいたるまでには政治家を巻き込んだ気の長い運動があってやっと特例法ができたことを思うと、タイではまだまだ時間がかかりそうですね。

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2009年8月8日土曜日

GID関連の書籍


性同一性障害に関する出版物リスト

性同一性障害については当事者自身が理解を深めることはもちろん大事です。同時に家族や友人、同僚などから理解されることが将来の展開に大きく影響します。だれも一人では生きていけないからです。

手術だけで成功というなら比較的に簡単な話ですが、新しい性の役割でどう社会に適応していくか、など生涯追求していかなければならない大事なテーマもあります。慎重な行動と計画がないと、あとになって周囲の理解不足のため、新たな悩みをかかえることになりかねません。

「性同一性障害」というテーマはよりオープンになり、GID関連の出版物は増えてきています。そこでアマゾンで自動的に追加補充される出版物リストを紹介させて頂く以下の方法を追加しましたので、ときどきチェックして参考にして頂ければ幸いです。

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2009年8月3日月曜日

≪できそこないの男たち≫ 



≪できそこないの男たち≫ 

以下引用の文は、福岡伸一著「できそこないの男たち」(光文社新書2008年10月刊)、という本のそでにある、ブラーブをそっくりそのまま引用したものです。この本の一読をお薦めしたかったのと、これ以上のブラーブは書けそうもなかったので・・・・ 

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地球が誕生したのが46億年前。そこから最初の生命が発生するまでにおよそ10億年が経過した。そして生命が現れてからさらに10億年、この間、生命の性は単一で、すべてがメスだった。(本文より)

<生命の基本仕様>――それは女である。本来、すべての生物はまずメスとして発生する。メスは太くて強い縦糸であり、オスは、そのメスの系譜を時々橋渡しし、細い横糸の役割を果たす“使い走り”に過ぎない――。

分子生物学が明らかにした、男を男たらしめる「秘密の鍵」。SRY遺伝子の発見をめぐる、研究者たちの白熱したレースと駆け引きの息吹を伝えながら,≪女と男≫の本当の関係に迫る、あざやかな考察。
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この本は性同一性障害とは直接の関連はないですが、メスが生命の基本仕様であるという科学的な実証や、今日の人間の起源がオンナ、オトコともにアフリカの地であったということ。さらになぜ、XX型女性、XY型男性という基本仕様に、性転換症やインターセックスなどの例外が発生するのかなど、この問題に興味をもつ私たちにはたいへん面白い読み物です。世界中の学者がしのぎをけずる遺伝子学的な実証はあとほんの数歩というところまできているようです。分子生物学という分野の学者による、スリルに満ちた面白い読み物です。まだお読みでない方はぜひどうぞ。¥860の価値はあります。

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2009年7月21日火曜日

アメリカのGIDニュース (その4)


Good luck, brother!

チャスティティ・ボノの幸運を祈り、激励のメッセージを送るトランジションを達成したFTMの先輩、寄稿者ジェイミソン・グリーン氏は、”Becoming a Visible Man” (「目に見える男になって」2004年刊)という本の著者で、トランスジェンダー問題の運動家、教育者、アドバイザー、として活躍している。
(2009年6月17日 CNN.com)
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英語の“transsexual”という言葉がまだ考案される前の古い話しになるが、英国の貴族階級に属する家系に生まれた恐れを知らない若い人が、女性から男性へ変身するための準備に着手した。彼は医学校の教育を受け、当時はまだろくに理解もされていなかった新しい薬剤であるホルモン剤を入手し、独り立ちして男性としての生活を始めたのである。それは1940年代の初期であった。

やがて彼は治療を引き受けてくれる形成外科医を探し出し、1949年までには身体的な変身は完成した。しかし、家族は彼を拒絶した。イギリスのタブロイド紙はここぞとばかり襲いかかり彼をずたずたにする。マスコミから逃れるため、結局はだれの助けも借りずに自らの人生を再構築しなければならなくなる。彼のたどり着いた場所は遙かなるチベット。そこで彼は仏教僧となり、1962年に47歳という年齢で死を迎えた。

彼の名前はマイケル・ディロン、西洋世界での最初のトランスセクシュアルの一人ということになる。つまり、医学的な手段で生まれながらの性器官及び(または)性自認を別の性に転換した人物ということです。彼が生前に書き残した厖大な日記などの記録は家族によりひた隠しにされ、ほとんどが焼却されてしまう。今はわずかな断片だけが残っている。

私事ながら、私が40歳になる直前にトランジションを始めた頃は、1949年頃にくらべてもほとんど違いがないほど女性から男性へのトランスセクシュアリズムに関する情報はなかったのです。1990年代になってからも、医師たちの言うには、私たちトランスセクシュアル当事者はグループで集まったりしない方がよい。理由は、あなたたちは「普通の人たち」と違うことに気付かれるからだ、という程度の認識だったのです。

TSの女性の多くは、背が高く、肩幅が広い、手や足が大きいなどの特徴がある。反対に多くのTSの男性は、背は低め、手と足が小さい。身体的特徴がバラエティーに富んでいる人々の多い環境で生活している場合はともかく、あなたと同じような特徴をもつ人たちが多く集まれば、TSであることが発覚するリスクは高い。

トランスセクシュアルであることが発覚すると、恐ろしい結果を招くことがある。つまるところ、「普通の人間」として社会にとけ込むことが治療の目的なのです。私自身は「性転換」はごくまっとうな治療プロセスであって、ホルモンを摂取し、手術を受けて、家に帰り、庭の芝刈りをする、という具合に普通の生活が送れるものと単純に考えていた。

しかし、控えめに言うと、ビックリするような経験が待ちかまえていたのです。その最大の教訓は、トランスセクシュアルであることが発覚することが、こんなにも恐怖と屈辱の対象になるのか、それがとてつもない苦悩になることを、イヤというほど思い知らされたのです。

私と同じような人たちは、世間から身を隠し、いい仕事に恵まれないか無職で、病気になっても医者に行かず、また親密な関係のパートナーも持てないことを知りました。

トランジションを始めてからは、私と同じTSの男性と会う機会が増えてきて、恐れと屈辱感が彼らの人生を縛っているのを自分の目で感じました。この人たちは、親切で、やさしく、思いやりがあり、真面目な人たちです。恐れや屈辱をかかえて生きなければならない理由などかけらもない、善良な人間なのです。

その時思ったのは、私たちTSがどういう存在なのか、TSがどうやって生きているか、世間の人々を教育するしかない、ということです。そうして初めて、私たちTSは自分一人ではないこと、恐れる必要はないことを知り、さらに世界の人たちに私たちTSが存在することを知らしめ、TSたちが違いやユニークさを持ちながらも、安全に生きられる世界をつくること、が可能になってくるのです。

北アメリカ、ヨーロッパ、イギリス、日本に住む少数のTS男性のように、私自身も大衆教育の一環として、われわれTSの体験について書くことを始め、立法府の議員や政策決定者に知識を提供し、私たちの後に続く世代が同じ苦しみを経験しなくてもいいように願い、法律改正に働きかけています。

そしてこの度、チャズ・ボノが代理人を通して自らのトランジションを公表しました。素晴らしい、勇敢な新しい世界の到来です!私たちの言葉は広がりつつあり、すでにいくつかの保護法が成立しています。理解できないものは壊してしまえという乱暴な態度は、アメリカではもはや許されないことを理解し始めたようです。しかし、気を許せない一部の人たちが存在することは忘れてはいけません。

チャズ、女性から男性へのトランジションが今後スムーズに進行することを願っています。ただ、私の経験から言えることは、少々のサプライズや困惑する事態に遭遇するのは避けられないだろうということです。必要なプライバシーが保たれ、トランジションのもたらす恩恵をフルに体験できること、さらに公的な活動のためにせっかくの恩恵を犠牲にすることがないように祈っています。

あなたの有名人としての影響力は、世間に新しい理解をもたらすことができます。一般のTSたちはスポットライトを避けただけでなく、無関心な大衆に声を発する機会もなかったのにくらべると、あなたにはメディアの注目を集める力があります。無視されることもありません。しかし、自分でまだ心の準備ができていないと思う間は、無理に自分をさらしてはなりません。自分の人生は自分だけの責任ですから。

私にとっては、トランジションの目標は、その意味はともかく、「普通の人」になることではなく、自分としてバランスのとれた生き方をすることでした。トランスと関係のない人たちも同じ目標だと思います。そこに達するにはそれぞれ違った道程があると思います。私の場合は、うまくいったと思っています。
兄弟よ、幸運を祈っています! ―Jamison Green―

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(訳者注)アメリカでは宗教的偏見、政治信条、無知などから、暴力沙汰のヘイトクライムが多く、性的マイノリティーは身の危険にさらされています。とくにトランスセクシュアルはその対象になることが多いのです。中近東などの古風なイスラム社会では死を意味します。それにくらべれば、TSに対する理解度はまだまだながら、日本はやはり世界有数の自由で安全な国ではあります。グッド・ラック!


2009年7月20日月曜日

アメリカのGIDニュース (その3)


<PEOPLE誌の記事・性転換の途上にあるチャスティティ・ボノ>

FTMが詳細に取り上げられる機会は少ないので、有名な芸能誌「ピープル」の記事もご紹介します。
(2009年6月11日。Chastity Bono Undergoing Sex Change

エンターテイナーのシェールと故ソニー・ボノとの間にできた一人っ子であり、政治的・社会的アクティビストとして知られるチャスティティ・ボノ(通称チャズ)は今年になり40歳を迎えて間もなく、性転換を進めていることを発表した。

友人が「ピープル」誌に語ったところでは、母親のシェールは「本人が長い間望んでいたことは知っていた。長期間に及ぶプロセスなので積極的にサポートしてあげたい」と言っている。

ボノの代理人であるハワード・ブラグマンも、「チャズのことは本当です。チャズも長年悩み考えた結果として、自分の本当の性自認に正直に生きていきたいと勇気をだして決心したのです。」

「彼は自分の決心に誇りを感じており、また彼の愛する周囲の人たちから示されたサポートと尊敬の意に感謝したいと言っています。20年前に最初にカムアウト(レズビアンとして)した時と同じように、今回のトランジションがこのような問題に関する社会一般のひとびとの受容度と寛大さを呼び起こすきっかけになれば、と願っています。」

1998年の「ピープル」誌の記事によると、チャスティティ・ボノは、自分のケースも含め、若者のゲイたちの生活の実像を集めた“Family Outing”という本を出版したばかりであった。その本ではカムアウトしてゲイの性行動をオープンに語ることで得るものと、思わぬ落とし穴についての実例が報告されていた。1987年ニューヨーク大学1年のときに、両親に自分がゲイ(この場合はレズビアンのことを指す)であることを打ち明けたが、父親のソニーは冷静に受け止めたものの、母のシェールは全く逆であった。

            <1998年。母のシェールと一緒に>


「私は動転して頭が真っ白になった。それまでは、彼女が結婚して子供を産み、家族を育てるようになることを夢見ていたからです。」とシェールはピープル誌に語っている。シェール自身も1983年の映画「Silkwood」で同性愛の女性の役を演じて評判になっていて、熱烈なファンには同性愛の女性が多かっただけに、余計に動揺したシェールは娘をニューヨークのアパートから追い出してしまった。チャスティティもロックシンガーとして活動するために大学を中退し、同性愛の女性であることは秘密にすることに決めていた。

ところが、事はうまくは運ばなかった。1990年に自分のロックバンドとともに歌手として売り出す直前に、週刊タブロイド紙が彼女がレズビアンであることをすっぱ抜いてしまったのだ。レポーターに囲まれた彼女は、ゲイコミュニティーの仲間がタブロイド紙にたれこんだのを知り愕然とする。

「それまでの人生でもっとも傷ついた出来事でした」と1998年になって述懐している。「どこに向かうかも知らず大海をただよう小舟のよう、自宅にこもりブラインドを降ろし、生きている実感を失ってしまったのです。」

1992年になると、20歳も年上のジョーンという女性と親密な関係になったが、これも悲劇的な結末を迎えることになる。ジョーンが悪性リンパ腫という難病にかかり、闘病の果てに1994年に死去したのだ。翌1995年になると、失意のボノは意を決してゲイ活動に身を投じ、ゲイ雑誌「The Advocate」の表紙の写真を飾ると同時にカムアウト宣言した。そして、ゲイ・レズビアン権利保護同盟(GLAAD)の中心的な地位につくことになった。

ボノの同性愛者としての公然活動は両親との関係修復にもなり、母のシェールは娘の活動に誇りを感じるようになり、「初めて私の全人格を見てくれるようになりました」とボノも認めている。ところが、母とは離婚していた父親のソニーの方は共和党の政治家になっており、同性愛者の結婚などを認めない共和党の政策に同調せざるを得ない立場にあった。「個人的には私を受け入れてくれましたが、政策的にはノーでした。父には直接には言いませんでしたが、私は心では怒りを感じていました。」(この後ソニー・ボノはスキー中の事故で1998年に死亡してしまう。)

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他にもゲイ運動関係者からのコメントがありますので、以下にその一部をご紹介します。

「トランスジェンダーとしてカムアウトするのは極めて個人的な決心であり、決して軽い気持ちでできるものではない。近いうちにチャズの口から彼自身の言葉を聞くことが出来るよう期待しています。」
とGLAADの会長のニール・ジウリアーノが言う。

「性行動の方向性を転換するトランジションは、通常はホルモン治療から始め、時には外科的方法で性転換する場合もある。人によっては医学的なトランジションである場合もあり、単に社会的なトランスである場合もあるが、多くの当事者にとっては両方とも必要になることが多い。」と言うのはLGBTコミュニティーセンターのキャリー・デイビスである。

いろいろなメディアで未確認の情報が飛びかっているようですが、チャズは昨年6月ごろからトランジションを初めており、来年には終える予定だ、という記事もあった。ということは、SRS手術によるトランジションを完成するのが目的のように思えます。あとは成功を祈るばかりです。グッドラック!

            <トランス途上のチャズ・ボノの近影>


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〔注〕チャスティティ・ボノに関しては、CNNの続報がありました。トランジションに成功したFTMの先輩からのアドバイスの投稿ですが、これも参考になる内容を含んでいるので次回の投稿でご紹介します。

アメリカのGIDニュース (その2)


<有名人のFTMがカムアウトすると…>

先回の投稿で、チャスティティ・ボノがFTMの治療を始めたとカムアウト宣言したニュースをお伝えしました。母親と父親ともアメリカでは有名人であり、本人自身もゲイ権利擁護の活動家として知られるチャスティティ・ボノの公然のカムアウトは、それだけ大きな社会的なインパクトがあったのです。

まず母親のシェールは世界的に知られる存在です。歌手であり女優でもあるシェールは、ポップ歌手として1億枚以上のレコードを売り上げ、アカデミー主演女優賞、グラミー賞、エミー賞などを総なめで受賞したほどの超有名人です。同じく歌手であった父親のソニー・ボノもシェールと結婚後デュエットを組んで、ともにヒット曲を次々と送り出した。

          <幼少の頃のチャスティティと歌手の両親>


ソニー・ボノはシェールと離婚後に再婚してその後は政界に転じ、カリフォルニア州選出の下院議員として環境保護に取り組み大きな実績を残すが、1998年1月スキー滑降中に立木に激突するという不慮の事故で死亡する。

今年40歳になった娘のチャスティティ・ボノ(通称チャズ)は、両親のテレビショー”The Sonny and Cher Comedy Hour” に小さな女の子としてレギュラー出演していた。成人してからは、自らレズビアンであると公表し、20年間もゲイやレズビアンの権利擁護運動に関係してきたという実績がある。最初のカムアウト当時は母親のシェールは困惑して、娘と別居する結果になっていたらしい。今回のカムアウトはさらにインパクトの大きい「トランスセクシュアル」という内容なので、さらに話題をさらうことになったのです。

          <女性らしい歌手から男性へのトランスの初期>

        
世間には誤解もある。性の転換というと外科的手術で性別を転換するものだと思う人が多いが、実際に性別適合手術(SRS)で性別を変更するケースはそれほど多くない。アメリカ人の0.25%から0.5%の割合でトランスセクシュアルが存在するという推測があるが、これは社会的な転換と医学的な転換との両方を含むおおよその数字だと見なければならない。

メディアはあまりにも手術にハイライトを当てるが、実際に外科手術にまで進むケースは多くなく、どれくらいのケースがあるかも頼りになる数字は把握できていない。とくに女性から男性へのFTMの場合は、何回にも分けて、また一年以上の期間と多額の費用がかかるので、仕事上や経済的な事情からも手術にまで進めないのが理由の一つだと思われる。

チャズの場合も書面でのマスコミ発表はあったが記者会見などは行われず、詳細はいまだ分かっていない。本人側から自発的に発表したことは、今後はチャズ本人が「男性」として認知され、男性として行動することを望んでいるということでしょう。具体的な治療方針はチャズ本人の必要と要求に応じて、また受け入れる医師の判断によって決められることでしょう、と友人は語っている。

FTMの治療は長期間にわたるものなので、マスコミも本人のプライバシーを尊重して欲しいと友人達は願っている。有名人がカムアウトする場合にはこのような特有のむずかしさがある。”People”誌に母娘の写真が大きく掲載され、娘が男性になると発表されたので、全米に知れ渡った。ただ、母親のシェールは「長い間本人も望んでいたことは知っていたので、今後は積極的にサポートしていく」と励ましているのが大きな救いです。

             <シェールとチャズ・ボノ>

         
〈以上はCNNニュースその他のソースからまとめたものです。チャズ・ボノのニュースはまた次回でもフォローします。〉

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2009年7月14日火曜日

アメリカのGIDニュース (その1)


<アメリカのMTF・FTM>


2009年6月17日のCNNニュースのネット版に、アメリカのGIDに関する記事がありましたので以下にご紹介します。

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男性から女性へ(MTF)

ヘンリー・ジョセフ・マデンは高校時代には成績のよい生徒として、また陸上部のトラック競技の選手として青春を謳歌しているように見えたが、実は彼には秘密があった。ときどきひそかに母親のパンストや下着を自分の服の下に着用していたのである。

「本気で女の子になりたかったのです。母親の下着を身につけるのは、そのような気持ちを満足させるひとつの方法だったのです。ただ、いつも誰かから肩越しに見られているような不思議な気持ちを味わいました。」とマデンは述懐している。

女になりたいという気持ちはその後も消えることはなく、48歳になってから初めて医師に自分の気持ちを打ち明けて相談した。紹介されたジェンダー・セラピストのもとで治療をはじめ、その結果マデンはトランスジェンダーと診断された。

電気脱毛法やレーザーによる体毛除去、発声法のレッスン、そして性別適合手術(SRS)とすすみ、それまでのヘンリー・ジョセフはジェニファー・エリザベスとなり、通称はジェニーとして知られている。ジェニーの職業は内科医師、アメリカの東北部にあるニューハンプシャー州ナシュアの街で自分のクリニックを持つ開業医である。

女性から男性へ(FTM)

有名な女優であるチャーを母に、エンターテイナーからアメリカ下院議員になった故ソニー・ボノを父として生まれたチャスティティ・ボノが、先週マスコミに発表したのは、女性から男性への性転換への第一歩を踏み出した、という驚くような内容であった。

比較的にまれであるこの性転換症という症状は、近年になってもっと広範に知られるようになってきた。一部の研究家の説ではアメリカ人口の0.25%から0.5%の割合で、性転換症(トランスジェンダー)がいると言われている。

LGBT(Lesbian,Gay,Bisexual,Transgender)という略語は普通の話題となり、性転換症の人々も評判となった映画“Boys Don‘t Cry”や2002年出版の“Middlesex”という本で描かれる存在になったのは記憶に新しい。

性転換を成し遂げた人たちの話から言えることは、MTFとFTMを問わず、その多くが子供時代から自分が間違った性に生まれていることに気づいていたということだ。男の子として生まれたジュリー・プラウス医師は、もう3歳の頃からなぜ父親がキャッチボールをして遊びたいのか理解できなかった。男の子として、プラウスは魚釣りやハンティングの仕方も教わったが、本当に楽しかったのは大恐慌時代のガラス工芸の花瓶を集めることだった。アメリカ東部バーモント州で精神科医を開業しているプラウス医師は、48歳になった2008年3月から女性としての人生を始めている。

「毎朝起きると、鏡に映る自分を見つめて“ワァー、凄い”と言う。今まではそんなこと出来なかったのです、鏡の自分を見つめている何者かは自分ではなかった気がしたのですから。」とプラウスは自分の達成感に満足している。

性の自認には生物学的な根拠があると医学者たちは想定しているが、しかし生物学上のどのような仕組みが性別を決めるのかについては誰もまだ結論を出せないでいる。性意識の決定には個人の個性とその文化的背景が相関して影響することもあり得る、と言うのはジョンズ・ホプキンス大学の性行動調査班のクリス・クラフトである。

性転換のプロセス

生物学的に性別を変えたい人は、まず最初のステップとして精神カウンセリングを受けなければならない、と説明するのはカリフォルニア州・ビバリーヒルズの形成外科医のゲーリー・アルター医師。一年間もかかるこの精神治療プロセスを経ずに彼のもとに来る患者はいないと言う。

セラピストの診断書で認定されてから、医師の指導のもとにホルモン治療が行われるようになり、この時点から本人の希望により自らの望む性での生活を始めることができる。

男性として生きたい女性は、外科手術でまず乳房を除去する場合が多い。ホルモン治療のテストステロンの作用で、ほぼ2年後には顔のひげや胸毛が生えるようになる。

女性として生きるのを望む男性の場合では、女性から男性への転換の場合とくらべて、外科的方法で性器官を変えるのを選択するケースが目立って多い、とアルター医師は言う。男性のペニスを作る方法は、女性に備わっているクリトリスを使って小さなペニスに作り上げる方法から、前腕部の皮膚筋肉組織を移植してペニスに作り上げる方法などがあるが、いずれも完全とは言い難く、多くの患者はただ乳房を除去するだけで満足している。
(注)バンコクのPAIでは前腕部ではなく、移植の傷跡が目立たない腹部皮膚筋肉を使ってペニス形成を行っている。

一方、男性の身体に女性の性器官を造るのは、望むような結果が得られることが多い。アルター医師の方法は、ペニスの先端をクリトリスとして整形して使い、そして膣のスペースを新たに造るというスタンダードになっている方法である。

社会への適応

ジェンダー(性意識)の転換の道をすすむ人々で、途中で引き返すケースはまずないとみてよい。とくに外科的方法が取られている場合はなおさらである、と専門家たちは言っている。

「目に見える男になって」という本の著者で、現在60歳のFTMジャミソン・グリーンは、乳房除去から男性器形成まで外科手術を受けて男性となり、性を変えたのは自分の行った行為のなかで人生最高の決断だったと述べている。

「そのことについて人に話すことには抵抗は感じません。最初はやはり心配しましたが、当時はこの性転換症についての理解がなくサポートグループなどもなかったからです。ただ当時から感じていたのは、恐れや恥という気持ちを抱きながら生きていくのは健康によくない」、ということでした。

40歳でトランスへの道を歩み始めたグリーンは、その時点では何の接点もなかった女性と結婚して、今は幸せに暮らしている。プラウスはトランス開始から知り合いだった女性と結婚している。またマデンにはボーイフレンドがいる。

マデンは言う、「自分は精神病だと思いこんでいた時代は本当に長くつらかった。今はそんな気持ちは完全に消え失せてしまっている。」

ただ、この三人とも、自分の周囲の人々が受けたショックや当惑は感じざるを得なかった。グリーンの場合は、母親を納得させるまでに5年もかかった。プラウスの息子の一人は口も聞いてくれなくなった。マデンの女性との結婚はトランスしている間に破綻していまい、子供たちも苦悩の時代を送った。

しかし、三人とも自分が選らんだ性で生きていることに多くの意味でよかったと思っている。

医師のプラウスは言う、「私の患者さんは前よりもいい医者になったと言ってくれる。自分自身を隠すことに余計なエネルギーを使わなくなったのがいいのかも知れないですね。」

精神科医は、性転換をする人は新しい性意識を身につけて行動するようにし、性同一性障害の過去やトランジションの過程を隠さないように勧める。しかし、新しく身に付けた性役割で「パス」できている人も、ばれた場合のリスクを恐れて、身近で信頼できる少数の人にしか打ち明けない人も多い。

クラフトの見解では、女性から男性になる場合にくらべて、男性から女性に転換するトランスセクシュアルの方が直面する問題が多いと言える。男として生き始めた人たちは、とくにそのトランジションの振幅が大きく際立っている場合には、それだけ直面する悩みも大きい。

今は“チャズ”という愛称で呼ばれるチャスティティ・ボノの場合は、ゲイの権利擁護の運動家として有名であった。それだけに有名人の場合は、もっと複雑な性転換の当事者ということになれば問題がより深刻になってくるのは想像できるでしょう、とクラフトも言っている。

注〕FTMのチャスティティ・ボノについては次回の投稿で詳細をお伝えします。

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2009年6月2日火曜日

タイのTS美人コンテスト

<ミス・ティファニー・ユニバース>美人コンテスト

ビーチリゾートとして有名なパタヤで、毎年5月にミス・ティファニー・ユニバースという美人コンテストが行われます。これはタイ国内でもテレビ中継され高い視聴率を上げているので、タイ人なら知らない人は珍しいと思ってもよい。今ではインターネットで世界中に流されているので、その狙いであるTSのイメージアップと観光プロモーションには、それなりの役割を果たしているようです。

以前の投稿でも紹介したように、これらのTS女性は一般の女性より美人が多く、街中で見かければ女性がうらやましそうに後姿を追うのはときたま見かける光景です。過去のコンテスト(2004年)の出場者にはこのようなTS女性がいましたので、その美人ぶりを紹介しておきましょう。




2009年5月のコンテストの写真と記事はここをクリックして見てください。念のためリンク先はここです
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2603140/4153718

以前にも触れましたが、タイでは12,3歳頃からホルモン治療を始め、20歳頃にSRSを済ませるケースは珍しくありません。親も子供のおかれた性同一性障害という状態が分かれば、早めに必要な方策をとることに抵抗が(他国の文化にくらべて)少ないのではないかと思われます。その結果、ホルモン治療により10代後半には、皮膚や体型にも顕著な女性化が現れるのでしょう。その結果として、もちろん例外はあるものの、豊胸手術などの美容整形もすませた多くの美形のTS女性が生まれてくるというわけです。

美形のTS女性には明るい人生が約束されるとは限りません。やはりきびしい現実からは逃れようがないのです。GID/TG/TSは、「レディーボーイ」、「カトーイ」、という呼称で社会的には認知され、ゲイと同じように普通人の話題にもよくでます。タイ人はすべてのことに大らかなような印象を受けます。日本に比べればうらやましいような社会環境だと思えなくもないです。

ただ、いくら美形でも正式な女性として結婚はできないのが現状です。SRSを済ませて肉体的にも女性になっていながら、法的には戸籍上の性別変更は認められていないのです。はっと目を惹く美人女性が、男性のパスポートで海外旅行に出かけるというわけです。日常生活に欠かせないIDカードも男性表記のままです。性的マイノリティーには日本よりはるかに寛大なタイで、法律面では柔軟性に欠ける理由は単純ではないかもしれませんが、男女差別のある遺産相続の問題に関係してくるなど、タイ独特の社会背景があるような気がします。

とりあえず、タイの美人コンテストでハイライトを浴びる彼女たちの前途を祝福することにしましょう。と同時にその裏側に大勢いる普通のGID者が、ごく普通の人間らしい生活さえできればよいと苦悩しながら必死に生きていることに思いを馳せたいと思います。コンテスト優勝者のインタビューと同時に、日の当たらないGID者の現実なども映像で紹介するような配慮があれば、このような美人コンテストにももっと社会的意義が見いだせると思います。

若年層GIDへの配慮はできないか?
昨年5月23日の投稿で、ボストン小児科病院のノーマン・スパック医師が7歳の子供も対象とするGID治療プログラムを始めたというニュースを紹介しましたが、7歳ごろには大半のGIDの子供は自らの異変に気づいているのではと思われます。それを放置しないで、本人の悩みを早めに解明し、病院と家族のお互いの了解のもとに、最善と思われる教育方針や、長期的な治療の可能性を追求していくという方法は、試してみる価値は大いにあると考えます。

宗教的な偏見の多いアメリカ社会では、当然ながら非難する意見がありましたが、その後どう展開していくか興味があります。もしこの試みが成功すれば、本来の性での人生が長く生きられるようになるわけですから、その意義は決して小さいものではないはずです。

そこで、日本でも就学児童の登校拒否という社会問題がありますが、その理由のひとつにはGID児童が含まれているのでは、という気がしてなりません。決して勉強がきらいなのではなく、男子、女子、とはっきり色分けされて扱われる学校の集団生活ほど苦痛なものはないと思われるからです。振る舞い方も普通の児童とは違うために、イジメの対象にもなりやすいでしょう。現場の教師や教育委員会、さらには文部科学省など教育関係者がどれだけ性同一性障害のことを理解しているか、大いに疑問に感じます。この問題は人種、文化、宗教を問わず、世界的にあるわけですから、考えるだけでも気が遠くなりそうな大きな課題です。

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2009年5月21日木曜日

クリスティーン・ジョーゲンセン--50年前の肉声 (III)


<クリスティーン・ジョーゲンセン赤裸々に語る>(Part II)


劇場の同僚とアクロバットに興ずるクリスティーン(1954年)

Q.ヨーロッパでの手術前には普通の男性の性器をもっていたわけですね。

「普通の男性という意味ではちょっと違います。手術前の男性としての生殖器は未発達か未成熟という感じで、たぶん肉体的にも性的にも感情面でも、男性としては十分成長していなかったと思います。」

Q.外見からは手も小さいし、身長も大きくないし、頬骨や顎の線もやわらかいし、元々女性的な体つきだったというわけですね。ところで、身体のサイズを伺ってもよいですか。

「世間では私は骨太の大柄な男性だったと思っているようですが、実際の身体はサイズ10で、身長5フィート6.5インチ(172cm)、体重は約120ポンド(54kg)。普通の女性はやせたがっているようですが、わたしは逆に130ポンド(58kg)くらいに太りたいですね。




Q.あなたの場合は医学的にも正当な手順を踏んで手術を受けたわけですが、世間では性的変質者のように安っぽい露出狂とかと思っている人も多いようですが、どう反論されますか。

「まず、わたしの治療をサポートしてくださった方々にはたいへん感謝しています。私にとっては素晴らしい体験とか悲劇的な思いとかとはまったく関係なく、また別に勇気とも関係ないと思っています。ただ自分が幸せになるには避けて通れなかった道だったからです。

「また、世間では私のような症状を理解できていないことと、性の問題について未成熟ではないかと思います。2年間のホルモン治療や、何回も何回も医学的検査を受け、合計3回にも及ぶ手術を堪えました。まずセックスとかセクシーなどという感じとはまったく無縁な体験でした。」

Q.世界でも前例のないほどのジャーナリズムのセンセーショナルな扱いを受けましたね。

「デンマークから帰国したときは、ニューヨーク空港始まって以来の大群衆が見物に押し寄せたそうです。またマスコミの扱いも記録的な大げさなものでした。出迎えがあるなどとはまったく予想していなかったので、飛行機の窓から外を見てパニックを起こしそうでした。

「新聞記事には女のように身体をくねくねとしながらタラップを降りてきた、と書いたのもありましたが、手に毛皮のコートを抱えていたのとタラップはゆらゆらと揺れるので、バランスを取るため自然にそうなっただけです。」

Q.また何千通もの手紙などで反響があった中には侮辱的な内容もあったと思いますが。

「世界中から何千通もの手紙をもらいましたが、ハリウッドのスターほどではないと思います。いやがらせは予想より少なく、私と同じ問題を抱えている方からの相談の手紙がたくさん来ました。私の体験に共感した人が多かったのと、それと同じ数の手紙が自分のかかえる問題になんらかの答えやガイダンスを求める内容でした。中国人や日本人からも手紙が来ました。わたしの母や父も感動して勇気づけられる内容が多かったのです。

「その一方で一部には侮辱的なものもありました。30から40通ほどですね。2,3万通からみれば嫌みの手紙は少なかったですね。その一人は“同封したカミソリでのどを掻ききって死ね、そうすれば俺たち同類は安心できる”、という内容のものもありました。自分も私のようになりたいという願望がありながら、私を成功のシンボルとしてねたんでいたのかもしれませんが、はっきりしたことは分かりません。このことで精神科医にも相談しましたが、それは精神障害の一種だから、たとえ私が地球の表面から消え去っても、その人たちの問題はなにも解決しないと言われました。」




Q.両親もたくさんの手紙を受け取ったわけですが、あなたのことを誇りに思っているのか、それとも恥だと思っているのでしょうか。

「両親とは親密な関係にありますが、あまり個人的なことは話さない家庭環境なので、はっきりした言葉では表現はしませんが、両親の言動から判断すれば誇りに思っていると感じています。」

Q.手術にまで踏み切るには勇気がいったと思いますが、後戻りできない決心がつくまでどれくらい時間がかかりましたか。手術への準備期間中も進むべきか、戻るべきか迷ったこともあると思いますが、いわゆる「ノーリターン」を決意した時点のことを覚えていますか。

「私のノーリターンの時点は、自分が他の子供とは違うという実感を持った子供時代からです。世界中どこでも子供というのは、グループの一員として仲間になるのに大変な苦労をします。群れの仲間になるのは自らの生存のための闘いなのです。群れから除外された孤独な子供は、心が引き裂かれるような疎外感を味わいます。私も引き返したいと思ったこともありましたが、手術を受けなくても肉体的には生き続けることは可能でも、正常な精神をもった人間として生きていくことはできなかったと思います。不退転の決心をして治療を受けましたが、もし手術を受けなかったら、自分の心の殻に閉じこもりになり、たぶん今頃はもう生きていないと思います。」

Q.準備の一環として精神分析は受けましたか。

「精神科医とはヨーロッパでの手術前から全面的な信頼のもとにあらゆる面で相談していました。思ってもいなかったことに、私の手術の件がマスコミに漏れて騒がれるようになったことで、その精神科医も真剣に心配そうな声で電話してきました。私は気にしていないから大丈夫ですよと笑いながら答えると、やっと安心されたようです。じつは精神科医は、私が自分の症状も完全に理解しており、手術も成功して幸せな気分でいることは知っていましたが、マスコミに騒がれるようになり、世間の批判やいやがらせなどで、私が神経衰弱になりそれが昂じて精神的にポキッポキッと崩壊してしまうのを一番恐れていたそうです。」

{注}この精神科医とは、性同一性障害(GID)の先駆者となるハリー・ベンジャミン博士のこと。

Q.ところで恋愛には興味はありますか。

「たくさんの手紙をもらったり、会ったこともない何人かの男性からプロポーズもあったりしましたが、恋愛のことはあまり真剣には考えていません。結婚は考えないわけではないものの、友情はとっても大事なことで、身近には好感をもつ男性は少なくありませんが、正直な気持ちとしては将来的にも結婚するようになるとは思っていません。」

Q.この新聞記事によると、「ボストン市ではクリスティーン出演禁止」という見出しが出ていますが。

「ボストンはもともと保守的な土地柄ですが、なにか屈折した精神風土があるようですね。とにかく私を見る前から、また舞台で何をするのかも知らないうちに禁止令など出すこと自体がおかしいですね。ボストンで禁止された出版物、演劇、映画などは他の地域ではたちまち評判になる、というジョークがあるくらいです。(笑い)。

「実際わたしが舞台でするのは、何曲が歌ったりするのと、事前によく検討して準備したテーマの講演が中心で、背景にはスクリーンを使用したり、またその間4回衣装を替えて登場します。女性の観客は衣装にとくに反応しますので。内容のあるテーマのお話をするときは、また全く違った衣装でマイクに向かいます。」



Q.お客の興味はどうやって持続させるのですか。お客は頭の中であなたから何を期待していると思いますか。話しの内容から何かを得ることなのか、外見をじっくり観察することでフリーク的な好奇心を満足させるとか。

「好奇心から来るひとが多いのは事実だと思います。これはクラブのオーナーから聞いたことですが、劇場に入ってくる時と帰る時ではお客の表情が違うそうです。興味半分でくるお客が多いのはわかりますが、実際に私を舞台で見て話しを聞くと、新聞の見出しで知るのとは違い、私はトリプルカラーの人間で、単に“黒”とか“白”ではなく、その間に別の色があるのに気付き、何かを学んだように感じるので表情も変わるのではないかと思います。好奇心をもつのは大変結構なことです。わたし自身も好奇心旺盛で、ソ連の打ち上げたスプートニク宇宙衛星にまで興味があります。

「あるとき舞台に出るとすぐ大変面白いと思ったジョークを言ったのですが、観客はだれも笑いません。マネージャーのトニー・デュランテが後で言ったことを今でも覚えています。“クリスティーン、最初の15分間はウケ間違いないと思った面白いジョークを言ったとしてもだれも笑わないよ。観客はまず君の頭のてっぺんからつま先まで品定めすることにしか興味がないからだよ”、と言われました。好奇心と言えば、私だって大女優のグレタ・ガーボが歩いてきたら、帽子のへりをめくって顔を覗いて見たい誘惑にかられるでしょうから。実際にはしませんが。(笑い)」

Q.あなたをめぐる世間のさわぎが静まって、もう過去の話となる時がきた時には、どういう存在になりたいですか。「元男性から女性になったクリスティーン・ジョーゲンセン」ではなく、例えば写真家、とか女優とか。

「そのような時はまず来ないと思います。世間的には私は「元男性のクリスティーン・ジョーゲンセン」のままだと思います。私が結婚したり、急に死亡したりすれば、マスコミが大はしゃぎした後に忘れ去られることはあると思いますが。面白いことに、先日も演劇関係の友人とお互いにまったく意識せずに子供時代の話をしていましたが、相手の女性が“あらごめん、あなたの昔のこと忘れてた”と相手が気づいて大笑いしたことがありました。わたし自身も自分が男の子だった過去を忘れることはないでしょう。今の私があるのもそのような過去と経験を経てきているからです。家庭でも6歳の時の自分の写真はそのまま壁に飾ってあります。友達と話すときも、自分の過去のことを話すのは平気です。」

Q.話しは変わりますが、脱毛などはまだしていますか。

「体毛はもともと多い方ではないですが、ひげの問題はあり今でも顔の脱毛は時々しています。電気脱毛による永久脱毛です。最初はたいへん恥ずかしかったですが、ウィーンの女医さんが体中が毛だらけのような女性患者を紹介しながら、彼女でも脱毛は問題なくできるからあなたの場合など簡単ですよ、と言ってくれました。実際にやってみるとその通り簡単でした。ここに来院する体毛の多い女性は多く、女性的でないことで精神的に不安定な患者さんが多いそうです。」

Q.デンマークで手術を受けたわけですが、おかげでこの国はアメリカでも有名になりました。デンマークの国民はあなたのことをどう受け止めていますか。

「デンマークは小国ですが、わたしの先祖の国でもあり、“北のパリ”と呼ばれるとてもチャーミングな国です。小さな国土のせいか、世の中の出来事をあるがままに冷静に受けとめる姿勢で、国民は思慮深い人が多いです。私はアメリカ人ですから、アメリカに戻り生活していますが、思いやりのあるデンマークの人々には恩恵の念を抱いています。現地の新聞記者も、センセーショナリズムを追うアメリカの新聞と違って、私のようなケースにも偏見はもっていないようで、たいへん客観的で冷静な扱いの記事でした。

Q.手術中は麻酔で眠ったままだったでしょうが、手術で身体のどの部分が除去され、それがどう処分されたか知っていますか。

「全然知りません。どこの病院でも片脚を切断しても、それがどう処分されたか教えないでしょう。」

Q.しかし、これは世界的に有名になった手術ですから、例えば、保存処置がされているとか。

「その可能性はないとは言えませんが、そうは思いませんし、とにかく私は何も知りません。」

Q.今後の人生の計画についてですが、映画会社などからさそいがありましたか。

「何社からさそいがありました。ただ、問題だと思ったのは、あなたが出演をOKしてくれるなら、どういう物語がいいか考えましょう、というアプローチでした。これは私にとってはネガティブなアプローチです。こういう物語を映画にしたいのであなたに出演して欲しい、というのならOKしたと思います。

Q.「クリスティーン・ジョーゲンセン物語」をあなたの主演で作りたかったのでないですか。

「いいえ、わたし自身が演じるとあまりにも役柄に近すぎて適役ではないと思います。」

Q.では他の男優が演じるのがいいのかもしれませんね。

「しかし、その映画の出来が悪ければ、もう俳優としての将来がなくなってしまうかも知れませんね。
男優よりは女優が演じるのが適していると思います。」

Q.あなたをモデルにした映画はすでにあるのではないですか。

「結構ありますね。承諾した覚えはぜんぜんないような作品で、ひどいものもあります。フランケンシュタインのような男が医者によって美女に生まれ変わるというようなストーリーで、クリスティーン・ジョーゲンセンがモデルだという宣伝文句ですが、私のケースとは無関係のひどい内容です。」

Q。将来の仕事については、アーチストの道に進むとか、舞台芸能関係か、または写真家としてもっと活躍したいのですか。

「写真家が一番向いているのではないかと思います。私的旅行でもどこに行くにもカメラと映画撮影機を持っていきます。先日も、デンマークで国王の戴冠式の映画を撮りに行ってきました。たいへん印象に残る宗教的なスペクタクルで、国王と女王にも直接お会いしました。各界の有名人とも会う機会があり、スポーツ界やマスコミ、演劇関係者など多彩な人々と会うことができました。とくに演劇界の人たちには親近感をもっています。」

Q.あなたとお住まいの家族構成はどうなっていますか。

「年上の姉ひとりとその小さな姪っ子が二人います。5歳と7歳です。」

Q.その小さな姪っ子さんですが、彼女たちが15歳、17歳になったときに、「クリス、学校の友達からあなたは以前は男だったと聞いたけど、それ本当なの」と不思議そうな顔で言われたらどう答えますか。

「まあ、17歳ではそのようなことは起こらないでしょう。私は7歳の時から自分の性に違和感を覚えていましたから。私の姉は自分の子供にはやがてわかる時がくるとは覚悟していたのですが、その時は意外に早くやってきました。ある日、年上の姪が姉のところにきて、お母さん、小さな男の子が女になることなどありえるの、と聞きました。姉はその意味を直感的に理解して、そういうこともたまには起こりますよ、とだけ答えた。すると姪は、この家の近くにそういう人いるの、と聞く。姉が、いるわよ、と答えると、姪は納得したような顔でだまって出ていったそうです。その下の姪も彼女から聞いて、二人とも私のことを理解したのだと思います。」

Q.あなたのケースは自然の犯したミステークだと理解する人が多いと思いますが、あなたの性転換手術は自然のミスに対する修正手段だと思っていますか。

「私たちの社会教育のせいで、この世には男と女だけが存在する、という観念を植え付けてしまったのです。この固定した観念が科学的な事実を受け入れられなくしています。つまり、男性も女性もそれぞれが両性の特徴を備え持っているということで、男は80%の部分が男性的で、残りは女性の特徴をもっているということです。女性にも同様なことが言えます。」

Q.ここにあなたのスクラップブックがありますが、この写真に写っているのは中国人ですか。

「いいえ、ホノルルの日本人です。有名になったおかげで世界中あちこち旅行しましたし、ファンレターを世界中から頂きました。」

Q.歌や踊りもできるし、ショービジネスがあなたにぴったりだと思いますが、お金もたくさん入っているでしょう。

「芸能界で働くひとは多額の収入があるので、金庫にため込んでいるお金もすごいと思われがちですが、実際はそう簡単ではありません。エージェントやマネージャーに払う費用、宣伝費、旅費や宿泊費、他の出演者のギャラなど、組織を維持していく経費も収入に応じて多額になります。それに毎週のように仕事があるわけではなく、6週間も仕事がないことも珍しくありません。もっと家族や私自身も楽にしてあげたいのですが・・・。」

Q.他にも録音インタビューなどの予定もあるでしょうが、将来やりたい仕事は考えていますか。

「私同様の悩みを持つ方の助けになりたいです。子供の頃から違和感をもっていても、どうしてよいのかわからないひとは大勢います。医者ではないので直接の助けにはなりませんが、どういうことを知りたいのか教えてもらえれば、その分野にくわしく信頼できる医師を紹介できます。暗い夜道をさまよい歩き続ける人たちに、進むべき方向をアドバイスしてもらう手助けは私にもできます。

「それと、4年ほど前から自伝を書いていましたが、やっと原稿が出来上がりました。複雑な感情や悩みなど自分自身の人生について書くのは結構むずかしいもので、「私」という一人称ばかりでは気恥ずかしいだけでなく見方も狭くなります。自伝なので「私」から逃れることはできませんが、自分の都合のよい解釈にならないように、できるだけ客観的に自分を観察することを念頭において書きました。近々出版されると思います。」

Q.ミス・クリスティーン・ジョーゲンセン。今日はとても興味深いお話を伺うことができてありがとうございました。

「ミスター・ラッセル。こちらこそありがとうございました。」

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その後出版されたクリスティーンの自伝




この投稿の締めくくりにふさわしいのが、上のクリスティーン・ジョーゲンセンの自伝本のジャケットに引用されている序文です。クリスティーンという人物の本質をよく表現していると思いますので、以下これも翻訳しておきます。

「1952年12月1日、ニューヨーク・デイリーニュース紙の読者の目に飛び込んできた大見出しは<元GIがブロンドの美女に。ブロンクスの若者が手術で変身>であった。それに続く18ヶ月の間に、クリスティーン・ジョーゲンセンについて50万語以上の言葉が世界の新聞紙上に踊ったのです。彼女自身の個性ある文体で、ジョーゲンセンは世界で初めての有名なトランスセクシュアルの先駆者としての人生の歩みを語っている。<自然は誤りを犯し、私はそれを修正した>と彼女は語る。
ラスベガスからハバナまで、クラブなどに出演するエンターテーナーとして、ジョーゲンセンはボストンでは出演禁止とされる一方で、ニューヨークでは<今年の選ばれた女性>の栄誉を受ける。同時代の有名人である、ジュディ・ガーランド、テネシー・ウィリアムス、ナタリー・ウッド、トルーマン・カポーテなどとも親交がある。
運命のいたずらか、クリスティーン・ジョーゲンセンは時代の脚光を浴びたが、彼女の才能とカリスマ性がその地位をしっかり守っている。世界初の有名なトランスセクシュアルとして、全身全霊を込めて彼女の役割を演じており、世間を啓蒙し、楽しませ、そのエレガントな立ち居振る舞いと魅力で、すべての個人が生来の権利としてもっている尊厳が与えられるよう尽力している。彼女の人生は限られた狭い道しかないものの、彼女は威厳と誇りをもって歩いている。この単純とも言える尊厳が、彼女の達成した持続する成果であり、後世に残る最大の遺産である。」

<スーザン・ストラトカーの序文より>

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クリスティーン・ジョーゲンセン--50年前の肉声 (II)


<クリスティーン・ジョーゲンセン赤裸々に語る>(Part I)


全米にセンセーションを巻き起こした帰国直後のクリスティーン

Q.ミス・ジョーゲンセン、クリスティーンとお呼びしてもよろしいでしょうか。最初にお聞きしたいのは、あなたは女性ですか、男性ですか。

「人間には男と女しかないと思いがちですが、科学的に見れば実際にそれぞれに程度の差はあるものの、両方のセックスの特徴がそなわっています。ここで深く議論してもしょうがないので、私は男よりも女に近いとだけ答えておきましょう。」

Q.医学的、生物学的に言って女性の性器官をもっていますか?

「このように答えましょう。いろいろな検査を行い診察した医師たちの見解では、私の身体のどこかに女性の性器官、または相似する部分が存在しているそうです。生化学的な検査では特定できる組織はないとのことでしたので、ならば検証するための手術をしてみてはという医学関係者もいたようですが、マスコミの好奇心を満足させるためにそのような手術をするのは悪趣味で論外である、という私の担当医の一言で落ち着きました。医学の倫理的な見地からもこのような検証目的の手術は考えられません

Q.マリリン・モンローのような魅惑的な曲線をもつ女性を見たときに、もとの男性にもどりたいと思うことはないですか。

「いいえ、それは全然ありません。私は対象が男であれ女であれ何であれ、普通の人たちと同じように美という対象には何でも惹かれます。」

Q.ヨーロッパでの従軍経験のあと、海外滞在中に性転換の手術を受けたと世間では思われていますが。

「それは事実と違います。私の軍隊経験については尾ひれのついた話しが広まっているようですが、軍隊に籍を置いていたのは第二次大戦が終わったあとの14ヶ月間だけでした。ヨーロッパでの従軍経験などは一切なく、大砲や銃を撃ったり、泥の中や危険な地雷原を歩いたりして戦闘に参加した「元GI」と思われるのは、正直なところ少し抵抗を感じます。

「実際の私は1945年8月からニュージャージー州のフォート・ディックスで除隊事務処理担当として勤務していました。1946年12月に除隊になり、1950年にヨーロッパに渡り医学的検査を受けるまで少なくとも4年間が経過しています。除隊後の私はアメリカの大学に通い、また写真学校でも勉強していました。」
       
1951年手術前のジョージ・ウィリアム・ジョーゲンセン

Q.要するに、女性に性的に惹かれることはなかったということですか。男として軍隊にいた時期も、他の兵士と同じように愛情または支配の対象として女性への性的興味は持たなかったですか。

「男同士で女が話題になるときはちょっと気恥ずかしい思いをした記憶はありますが、そういう話題には全然興味がなかったのでできるだけ避けるようにしていました。」

Q.軍隊生活では裸姿の男達と一緒の身体検査などもあったと思いますが、女性的な貴方は抵抗感があったのでは。

「ちょっと気恥ずかしい思いをしたことはあるとは思いますが、ニューヨークの閑静な自宅ではバスルームのドアにカギをかける必要のない環境で生活していたので、とくに気になることはなかったです。(笑い)」

Q.「ヘマフロディート(両性具有の人=ふたなり)」について医師から聞いたことがありますか。

「これについては以前に医師に聞いたことがあります。人間はみな程度の差はあれ両性の特徴を備え持っており、“ヘマフロディート”はひとりの人に両性の特徴的な性器管が同時に存在することですが、遺伝子やホルモンや精神状態には関係ないそうです。これは別名“インターセックス”とも呼ばれていますが、インターセックスは一方の性の特徴が他方の性の特徴より顕著に見られる場合に使われているようで、その意味では人間みんな程度の差はあれ基本的にはインターセックスですね。」

{注}hermaphroditeは今日では死語となり、通常はintersexが使われています。

Q.あなたの手術、つまり性転換はもう完成していると思ってよいですか。今後の経過の見通しなどもついていますか。

「肉体的な面ではもうすべて終わっています。もちろん子供を産むことはできませんが、普通の性行為をするのは問題ありません。まあ、言ってみれば子宮摘出した女性のようなものですね、ハハハ。」

Q.女性用のトイレに入るときには、他の女性たちはあなたを女性として受け入れてくれますか。

「まったく問題ありません。自然におしゃべりしたりすることがよくありますが、トイレの中ではセックスに関する話しにはあまり興味はないですね。(笑い)」

Q.ホルモン剤の身体に及ぼす影響についてですが、あなたはホルモン剤は摂取していますか。

「ホルモン剤は飲んでいますが、あまり規則的にではありません。本当は毎日飲む方がよいのですが、ホルモン摂取は資格のある医師の指導のもとでのみするべきです。」

Q.ホルモン剤は身体の特定の部分の女性化に変化をもたらしますね。

「男性ホルモンであれ女性ホルモンであれ、それぞれの肉体的な特徴や外形を強調する作用があります。私の場合はとくにすべての部分が小さいですからなおさら必要です。」

Q.舞台や映画にでる女性は身体の曲線を際立たせるためにパディングすると聞きますが、あなたの場合はどうですか。

「笑い)私も舞台に上がるときにはパディングします。それに加えて25から30ポンド(約13kg)の重さの衣装を身につけるのは身体にたいへんな負担がかかります。それに、最近の時代の傾向として統計的にも現れていますが、一般の女性でバストのサイズを意識する女性が多く、コンプレックスをもつ女性が手術を受けるケースが増えているのが気になります。美容のための豊胸手術はたいへん危険な手術だと私は聞いています。」

Q.あなた自身はなにか美容整形手術はしましたか。

「美容整形は一カ所だけ。それは胸ではなく、耳です。私の耳は“ドアを開けて走るタクシー”とからかわれるほど大きく出っ張っていて、子供の頃からコンプレックスをもっていました。デンマークに行ったときとても親切な形成外科医と知り合いになり、簡単な手術で直せるからと勧められ外来で整形手術を受けました。実際に信じられないほど簡単に問題が解決してとてもうれしかったです。」

Q.あなたは名声とともに悪名もふくめて世界的にセンセーションを巻き起こした存在になったわけですが、ご自分としてはどのように受け止めていますか。

「1952年12月5日に最初のニュース種になった直後は、私も大変なショックで驚きもしました。しかし、その後の世間の反響は意外にも好意的で、私の人生にどういうことが起こったのか興味をもつひとが多かったのです。時間の経過とともに、私がヨーロッパで受けたような手術が受けられるかどうかは別としても、同じような悩みをもつ多くのひとたちにとっては、私のケースが重要な意味をもつステップだと理解されはじめたのです。」

Q.新聞の見出しに「ブロンド美人の元GI」という表現が使われていますが、これはどう受け止めますか。

「そう言われてうれしく思う面もありますが、ただ元GIという言い方にはちょっと抵抗を感じます。それは“元GI”という表現には、なにか悪いニュアンスが込められていると感じられるからです。」

Q.今までに人を愛した経験はありますか。それは男として、それとも女性としてですか。

「愛にはいろいろな意味合いがありますが、今までの人生で2回だけ真剣な愛を経験したことがあります。いずれの場合も結婚には至りませんでしたが。男性としては完全な身体でなかったことも事実で、男としてというよりは、男性の服装をした人間としての愛です。愛にはたいへんパワフルな意味があります。ヨーロッパに渡って手術を受けたのも、中途半端な人生ではなく、フルに人生を生きたいという思いがあったからです。」

Q.手術する以前から演劇に興味をもっていましたか。

「そうです。写真と映画にはずっと興味があって、ヨーロッパで手術を受ける前までの仕事も、雑誌のカバー写真や映画関係などの仕事が中心でした。その当時は自分が公衆の面前に出ることは考えられなかったので、その裏側の仕事に興味をもっていたのではないかと思っています。大学を出てからも写真専門学校で学びました。今後も写真は趣味として続けて行きたいし、舞台の仕事にも興味があります。

Q.あなたが舞台に出るときはホモセクシュアルの観客が多いですか。またホモの友人も多いですか。

「いいえ、観客の中にはそういう人も交じっているかもしれませんが、主にごく普通の中年の夫婦連れが多いように思います。芸能界にはたしかにホモセクシュアルが多いのは事実ですが、その理由は同性愛者は自らが社会的な差別意識の中で生きているので、感受性がするどく、洞察力があり、すぐれた演技者であることが多いからだと思います。」

Q.同性愛の問題についてあなた自身はどう考えていますか。

「個人的には同性愛が社会にとって問題だとはぜんぜん思っていません。性的異常者や幼児に対する性的犯罪に同性愛者が係わっていることが多いという誤解が世間にはあるようですが、見識のある精神科医に聞いてみればこんな誤解は一笑されるはずです。もちろん、例外はあるでしょうが、現実的に同性愛者が社会的に害を及ぼすことは全然ありません。ただ一つ問題になるのは、みんなが同性愛者になってしまうと、次の世代をになう子供が生まれなくなってしまうことですね。(笑い)」

Q.少し前までは、ワシントンの政界では秘密保持に係わる職務にはホモを雇用してはならないという規則があったようですね。つまり、ホモを理由に脅迫されたりして政府の機密を漏らす危険性があるという理由だと思いますが。どう思われますか。

「同性愛自体が問題なのではなく、社会が同性愛者をどう見ているかが問題にされるべきだと私は思います。同性愛には男性も女性もいますが、同性愛者はたえず社会から疎外され、精神的な迫害にさらされています。その弱みを利用されるからだと思います。」

Q.酔っぱらって女装したりする男もいますが、あなたの場合は女装するとどういう気分になるのですか。

「たいへん快適に感じますね。衣服は単なる習慣だとも言えなくはないですが、自然な自分にもどったという感じになります。」

Q.世の中には自分が女であるという妄想癖にとりつかれている人たちがいると聞きますが。

「人間は一人ひとり異なった存在ですから、一人の個人は他の個人と同じではないのです。世間ではグループとして一緒くたに扱っていますが、医学的な教養のある人なら個々の患者はそれぞれ違った性癖をもった存在だと知っているはずです。」

Q.世間にはいろいろな人がいるので、ナイトクラブのステージで観客からいやがらせとか、街頭で罵声を浴びるというような扱いを受けたことはありませんか。

「お酒を飲むナイトクラブでは男性より女性の酔っぱらいが扱いづらいものですが、実際には侮辱的な思いをさせられた経験はまずありません。それどころか、面と向かってはいろんな人たちから好意的なコメントを頂くことが多いです。ただ一回だけ南アメリカを旅行したときに、街頭の人混みの中でわたしの身体に触ろうとした人がいましたが、周囲にいた人たちが中に入って防いでくれたので何事もなかったです。」

Q.男性からデートしたいと言い寄られたりすることがあると思いますが。

「たいていの女性も経験があるように、声をかけてくる男性はいます。しかし、ほとんどの場合やさしい配慮ある態度で、いやな思いをしたことはありません。彼らは抱いている好奇心や自分なりの疑問を解くためにわたしに近寄ってくるのではないかと思いますが、わたしはべつに気にしていません。座って一緒におしゃべりすることもあります。」

以下(Part 2)に続く。

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クリスティーン・ジョーゲンセン--50年前の肉声

近代的SRSに道を拓いた先駆者<クリスティーン・ジョーゲンセン>



彼女は本当に女性?
    彼女の性生活は?
    母親になれるのか?
    世界中にセンセーションを巻き起こしたセレブが、
    その私生活を赤裸々に語る


性同一性障害(GID)に興味のある方は、まずクリスティーン・ジョーゲンセンという名前は聞いたことがあるでしょう。簡単に略歴を紹介しますと、1926年にジョージ・ウィリアム・ジョーゲンセン・ジュニアとしてニューヨークのブロンクス区で男児として生まれ、7歳から自分の性に違和感を覚え、1952年から1954年(26歳から28歳)にかけてデンマークで性別適合手術(SRS)を受け、帰国するや否やブロンドの美女として一躍マスコミの脚光を浴びる身になりました。美貌と恵まれた才能を生かして舞台やラスベガスのナイトクラブ、ラジオ出演や講演などで世界的に活躍しますが、同時にGIDや同性愛などの性的マイノリティーへの理解を促進することに多大な時間と労力をさきました。

彼女を最初から精神的に支え導いてきた精神科医ハリー・ベンジャミン博士ともに、GID治療に精神科医の関わり、ホルモン治療を経て、さらに別の性での生活体験を経た後にSRSに進むという、今日のGID治療基準への道筋をつけた、患者の立場からの偉大な貢献者として記憶されるべき人物だと思います。婚約歴はあるものの生涯結婚はせず、1989年に62歳で肺がんのためカリフォルニア州で死去し、波乱に満ちた生涯を終えました。

50年前の録音インタビュー

インターネットの迷路をさまよう内に偶然たどり着いたサイトで、半世紀も前の1958年に録音されていたクリスティーン・ジョーゲンセンの肉声を聞いて感嘆しました。1954年に「性転換手術のスター」として世界的に有名になった彼女の肉声にまず感動すると同時に、彼女の話した内容が現代の医学的な見地からもなんら遜色なく、性転換者として世界のマスコミの脚光をあびた自分に誇りと自信を持っている彼女の話しぶりに、当事者でない私も驚きと感動を覚えたのです。

クリスティーンの話す洗練された英語にまず驚きました。デンマーク系のアメリカ人としてニューヨークで生まれ育ったため英語を話すのは当たり前ですが、彼女の端正な発音と的確な話しぶりはそこらあたりのアメリカ人とは明らかに違います。また、全くと言っていいほど無駄のない、理路整然とした話しぶりからは彼女の教養の高さがうかがえます。

「元GIがブロンドの美女に!」というセンセーショナルな当時のマスコミの扱いから想像する、「兵隊上がり」というイメージは全く感じられず、逆にインタビューした方がたじたじとしていたことに一種の快感を覚えたほどでした。

この録音インタビューにはオチがあります。このレコーディングは《クリスティーン・ジョーゲンセン赤裸々に語る》という俗受けするタイトルで、30cmLPレコードとして販売するためにプロモーターが企画したものでした。「赤裸々に語る」という思わせぶりなタイトルに彼女は抗議したそうです。ところがクリスティーンの話す内容は正統的で、俗受けしそうな露骨な質問は冷静にかわして答え、性同一性障害とはどういうものか自らのSRSにいたる経緯を話しながらも、世に大勢いるGID当事者への配慮を忘れることなく、無知で無理解な世間を啓蒙しようとするすぐれた解説だったのです。

結局のところ、俗受けをねらっていたプロモーターはこれでは売り物にならないという判断となり企画はボツ、50年前のこの貴重な歴史的録音インタビューは日の目を見ることはなかったのです。クリスティーン本人には1ドルの出演料も印税も払われなかったと、その後に出版された彼女の自伝に書いています。(上の写真はその幻のレコードのジャケットです)

この歴史的なインタビューが行われた時は、彼女はニューヨークに隣接するロングアイランドに母親と姉と姪二人と同居していました。その約50分に及ぶ録音インタビューの概要を以下にご紹介いたします。

興味のある方は、以下のサイトで実際の録音インタビューを聞くことができます。録音の聞き書きによる翻訳は少々長くなりますので、項を改め2回に分割して掲載します。

http://www.queermusicheritage.us/aug2000a.html

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