2014年10月26日日曜日
ローマ法王の同性愛者への視線
ローマ法王の同性愛者への視線について
10月20日の日経新聞に目立たない記事が目に留まりましたので、ちょっと感想を
述べてみます。記事の表題は「カトリック教会、同性愛者への寛容案見送り」です。
ローマ法王フランシスコはイタリア系移民の子としてアルゼンチンに生まれ、労働者階級のなかで育ったという生い立ちのためか庶民感覚にあふれ、カトリック総本山のバチカンに新風をおくりこみ、つぎつぎと改革にとりくんできた。大げさにいえば現代の宗教改革ともいえるその行動力には世界が注目していた。
その1つのテーマが同性愛などに対する寛容な態度だった。カトリックの信者や神父、バチカンにも同性愛者はいるからでもあり、この問題は無視できないと直視しようと思われたのであろうか。その勇気と決断を実行に移すスピードには、部外者ながらハラハラしつつも感嘆していた。
今回のニュースは、離婚したカトリック信者や同性愛者に寛容な姿勢をしめす内容の、法王主導でとりまとめた中間報告が「世界代表司教会議」でそのまま採択される見込みであった。その中には「同性愛者を歓迎する」との項目があり、「同性愛者もキリスト教社会に貢献できる才能と資質がある」との文言が盛り込まれていた。
「神の御計画」を破壊する企てとして同性愛や同性婚を禁じるというカトリックの教義は肯定するものの、現実の社会に生きる同性愛者の人間としての権利には配慮しなければいけない、とする中間報告書での歴史的な方針転換が将来への期待感として注目されていた。
ところが10月18日バチカンで開かれた200人近くの枢機卿や司教で構成される世界代表司教会議でその歩みよりの文言が多数を占める保守派の抵抗にあい、同性愛者への姿勢を変えると解釈される文言は削除せざるを得なくなった。これが改革を進める法王の初の後退となったのがニュースの主眼である。
ここで宗教にはとらわれない私には合点がいかないことがある。なんでこんなことが大騒ぎになるのか。LGBTと称される性的マイノリティーは、当事者本人が好んでなったのではない。生まれながら備わっていた性自認がある時期に発現するのであって、他人や社会の影響をうけて自ら選んだのではない。その性自認が自覚される年齢には個人差があるだけで、人種や文化が違ってもこれは共通している。これが文化の異なるLGBT当事者と接触してきた私の経験的な結論である。
さらにキリスト教やイスラム教などの宗教の拠りどころとなる聖書や法典には同性愛についての記述はない。この世には男と女、オスとメスしか造られていない、だから旧約聖書の神の御言葉「産めよ、増えよ、地に満ちよ」にいそしむのが人間や動物の役割だとされてきた。
同性愛では子は産まれない、そのような行為は神の意志に反するものである。これがキリスト教、イスラム教にも共通した道徳観である。
しかし現実社会では同性愛者として生まれてくる子供がいる。それが母親の胎内にいる間に方向付けされたもので誕生後に身につけた性自認ではない、という事実には宗教は眼をつむり耳を閉ざす。医学的にも未だに解明されていない。そこに社会的な偏見がはびこり、人間として生きる権利や場が制約される。
そこで誕生前から潜在する性自認をもつ同性愛者をなぜ神が造った人間として認めないのか、バチカンから広い世界に問いかけるべきではないでしょうか、とローマ法王にも言いたかったのですが、、、、。
しかし実際にはフランシスコ法王ご自身はすでにご承知のこと、自らは同性愛者を同じ目線で見ている。民主的に運営される世界代表司教会議で反対する多数派を説得するには段階をふんでやらないと一足飛びでは大ケガをすると、、、。
一年後にはまた機会がめぐってきます。LGBTも神が造られた同じ類の人間です。がんばってください。陰ながら応援しております。
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