2007年2月23日金曜日

SRSに至るまでの道・当事者体験談

『わたしの体験』
(関西在住・HHさんより寄稿頂きました)

~幼少のころ~
 両親、祖母にいつも殴られていました。殴られたことしか記憶にないくらい・・・

何かにつけて殴られました。納屋に閉じ込められる、木に括られる、「妹を泣かした」といっては殴られ、いとこが悪さをすれば私が殴られる・・・ 

「お前は男だから・・・お兄ちゃんだから・・・」

男の体であるが故、それだけの理由で殴られる・・・ 私は女なのに男の体を持って生まれたから、周りの大人に殴られる。私を可愛がってくれる大人は誰もいなかった。イジメも酷くうけた。一人ぼっちだった・・・
 
私がきちんと女の体で生まれてこなかったから・・・

小学高学年のころには、お家に誰もいないときにこっそり女物を身につけ、お化粧をして心の平常を保っていました。でも、後ろめたい気持ち、罪悪感に苛まれる。きっと、こんなことで安堵する自分を、反対の性だと思う人間なんてこの世で私一人に違いない・・・

ロシアの宇宙衛星で覗かれて世界中の人達が私を笑っているに違いない・・・
そんな妄想を抱いていた時期でした。

~中学生時代~
  中学入学にともない男子は強制的に丸刈りを強要されます。最後まで抵抗しました。無理やり丸刈りにされてもめげず、また髪を伸ばそうとしましたので生活指導の先生からよく「もみあげ」を引っ張られました。それでも懲りずにまた・・・

この時期、イジメも酷かったです。友達など一人もいなかった・・・。修学旅行なんて、みんなに袋叩きにされて泣いていた思い出しかありませんから・・・

中学は男子、女子と何かにつけて分けられますよね。自分が男子のほうに分けられるのが屈辱的でした。自分も好きな髪形をしてセーラー服をきて、ブルマをはいて、スクール水着もワンピースで、授業も技術でなく家庭科を学びたかった。

お家でこっそり女物を身に着けて丸刈り頭の自分を鏡に映したとき、どうしようもなく惨めになって、ペニスをとってしまえば女になれるという衝動にかられたことも・・・

中学生の浅はかな知恵で、刃物では血が噴出すから電気で溶断しようと考えました。電気コードの被覆を剥きペニスに巻きつけ、コンセントにプラグを差込みました。次の瞬間、ブレーカーが落ちました。2本の線を裸線にしてグルグル巻きにしたので短絡を起こしてしまったのですね。こうしてあえなく失敗に終わりました。

~就職から結婚へ・・・~
  高校は工業高校を選びました。早く自立して親元から離れたかったのと、中学時代の知り合いが誰もいない学校へ行きたかった。ただそれだけの理由です。
 
就職してからもずっと女装癖???は続きました。20歳くらいのとき、とうとう精神的に参ってしまい拒食症になりました。同時に夢遊病もあり、眠っている間にバイクに乗って移動していたこともあったんです。

この頃、テレビではニューハーフさん達が大人気で・・・私もなりたかった。仕事を辞め、通院しながら繁華街をウロウロしました。ニューハーフになりたかったんです。
 
しかし、当時はネットもなく情報も乏しい時代ですから、そこへ辿り着く術がなかったのです。仕方なく再就職しました。その時は諦めたんです。人との繋がりは一切なく距離を置いて生きてきました。

そんな私に転機が訪れたのは、それから間もなくの事・・・一人の女性との出会い・・・何となく惹かれこの人と一緒に居たいと思うようになりました。今にして思えば私は親の愛情を知りません。彼女に母親を見ていたのでしょうね。

自分が男性として女性とセックスをするということが、とても屈辱的でした。ですから彼女とも結婚後十数年、夫婦生活と呼ばれる行為は殆んどありませんでした。それこそ両手を使って数えることが出来るくらい・・・
 
それでも娘を一人授かりました。

~インターネットを通して~
  それから随分月日は流れましたがインターネットという環境が私を変えました。
 「性同一性障害」ネットを通してそれに辿り着いたんです。それから様々な情報を貪るように調べ、自分が幼い頃から抱いていたものはこれかも知れないと思うようになり、大阪医科大病院のジェンダークリニックの門をたたきました。

それと同時に女性ホルモンの個人輸入代行のサイトを知り、入手してしまいました。 「プレマリン」です。入手してから随分悩みました。今の自分を捨て家族を裏切ってでも自分らしく生きるべきか・・・随分思い悩みました。それでも私は私らしく生きる、そう決めたのです。それにしても涙って枯れないものですね。こっそりベッドで一人どのくらい泣いたことか・・・

私はこれから残りの人生、全てを失ったとしても女として生きる・・・その決断からすぐに1錠目のプレマリンを口にしました。

~カミングアウト~
  家族に内緒で始めてしまったホルモン剤・・・やはり後ろめたい気持ちから沈みがちな顔をしていたのでしょう。パートナーから「隠し事があるやろう!言ってみろ!」と激しく詰め寄られました。遅かれ早かれいずれは話さなくてはならないこと、私は意を決して全てを話しました。これからの人生を女として生き、SRSも受けるつもりですと・・・

床に土下座し必死に訴えました。途中、涙が溢れて言葉にならない・・・それでも胸の中にしまい込んでいた全てを話しました。話し終えたとき彼女は神妙な顔をしたままピクリともせず、ずっと考え込んでいるようでした。暫しの沈黙・・・その沈黙を破ったのは娘でした。

彼女が娘に「○○ちゃん、女になるんやて」と話しかける・・・それに対し娘が返した返事は「ええんちゃう。女になっても○○ちゃんは、○○ちゃんや!」・・・その言葉が家族を形の上でも繋ぎ止めました。

同居はするが夫婦としては、今、終わりにしましょう・・・それが彼女が出した答えでした。それと、このとき自己責任で服用を開始したホルモン剤のことは、「どうして医師の管理下で投与しない!」と、こっ酷く叱られました。
 
お友達には携帯メールでカミングアウトしました。文章を考えてメールを作成しましたが、直ぐに送信する勇気がその時は持てなかったのです。
 
暫らくの間、未送信ボックスに保存してあったメールを意を決して送信したのは七夕の日だったと思います。直ぐに返信が届き、『明日、会おう』と言うことで次の日、お友達との待ち合わせ場所に向かいました。ドキドキして心臓が口から飛び出るのでは?と思うくらい緊張しました。

否定されたらどうしよう・・・お友達を無くすかもしれない・・・色々なことが頭の中を駆け巡りましたが、とにかく会おうと自分を奮い立たせ向かったのです。
 
それで・・・会ってみるとこちらが拍子抜けするくらいお友達は平然としていました。『いいんじゃない、そういう生き方も・・・他の連中には自分から話しておくから心配するな。もちろん他の連中にも、とやかく言わせないから安心しろ』・・・それがお友達からの回答でした。うれしかった・・・うれしくて泣き崩れてしまいました。

会社には正式にカミングアウトする前から、女性の服装をし、メイクも普通にして出勤していました。SRSが決まったとき、上司と相談のうえ会議で全員が集まったときに時間をいただき、正式にお話しさせていただきました。その時点から会社として、私を女性として扱ってくれることになりました。
 
~SRSを終えて~
  こうして、あたしはフルタイム女性として生活していくようになり、バンコクのPAIで念願のSRSを終えた今は、本来の女性としての幸せをかみしめながら新しい人生を歩み始めました。

今は子供がいると戸籍の性別変更ができないという性同一性障害者特例法の改正を待っている状態です。あたしに彼氏がいるように、パートナーにも彼氏がいます。いずれそれぞれの幸せを求め、それぞれの道を歩むことになると思います。


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