2007年3月16日金曜日

SRSに至る道・母親への手紙(アメリカ人)

GID当事者のカミングアウトまでの道のりは、文化・人種の違いをこえて共通する場面が多くあるのには驚くと同時に共感を覚えます。以下、このごく普通のアメリカ人のたどったSRSまでの遠かった道のりをご紹介します。

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『リンダから母親への手紙』 (その1)        
(1996年6月20日。SRS手術前に書かれた手紙)

お母さん、このことは電話で言うには込み入っているので手紙の方がいいと思い書くことにしました。以前にちょっとだけ話したことがあるけど、私の症状は正式には性同一性障害というもので、普通はトランスセクシュアルと呼ばれています。話したいことはもっとたくさんあったのですが、なぜかお母さんとは真剣に話す機会がなかったのですよね。どれを取り上げても言いにくいことばかりで、私にとっては一生の葛藤として心の中で闘い続け、また隠し続けてきたことなのです。自分でも思った以上にうまく隠し続けられたとは思うけど、時には極端にはしる行動にはお母さんも気がついていたように、それは私にはとてもとても苦しい葛藤でした。

私のこれからの話は、内面奥深くにある感情や恐れの入り交じったことで、私自身も人生この時期になってやっと納得できるようになりました。お母さんには本心を打ち明けますから、できるだけ理解して気持ちを分かちあって欲しいと願っています。

幼児期の記憶
幼児期の早い時期から私は自分が女性だといつも感じていました。記憶に残っているのは2歳のときからで、その記憶は女の子のとしての記憶がほとんどです。具体的に時期のはっきりしている記憶は1957年の4歳の誕生日のものです。その時まで自分は女の子だと思っていましたが、突然その思いが打ち砕かれる出来事があったのです。その日はおばあちゃんの農場のベッドルームにいて、おばあちゃんが着替えしているときにパットおばさんが入ってきて、男の子の目の前でおばあちゃんがトップレスでいるのを見て、腰を抜かさんばかりに驚いたのです。その時のパットおばさんの騒ぎ様は想像にまかせますが、このとき初めて自分がずっと思っていたような女の子ではないと思い知らされたのです。

その次に記憶に残っているのは1959年の5歳のときです。それまでにも女の子であるという自覚はありましたが、この頃私はまだ小さかったものの、お母さんやお父さんが留守のときや眠っているときに、お母さんの服を着て自分が女の子であると想像しながら遊んでいたのです。サイズはぜんぜん合いませんが、大人になったらどのように見えるか想像をたくましくしていました。

パットおばさんとの最初の事件のこともあり、こういうことは普通ではないと感じていたので、お母さんやお父さんをはじめ誰にも話しませんでした。また自分が女の子であるとか女の服装をしたいという気持ちを抑えようとしましたが、このような感情を押し殺すのはどうしてもできませんでした。女の服装をすることで(クロスドレス)、ずっと内面で感じていた女の子の感じを実感として味わうことができたのです。

女の子であるという感覚と女性としての自分を表現したいという欲求は、大きくなるにつれて強くなっていきました。自分のような症状について知りたいと思っても何の情報もなく、年若い子供には手のとどく情報源も限られていました。それでも自分がなにかの病気で、どっかがおかしいとは感じていたので、だれにも話さず自分の中だけにしまっておきました。

学校生活
ヘシアスクールの6年生だった12歳のとき、クリスティーン・ジョーゲンセンという人が1953年に性転換手術を受けたことを知ったのです。どこからその情報を聞いたのか記憶にないのですが、彼女に関する情報を探し始めました。その夏にマウントプレザントの図書館でクリスティーンの半生を書いた本を見つけ出すことができました。ひと月の間図書館に通い、その本を少しずつ読んでいきました。借り出すこともできたのですが、係員にその本の内容がわかってしまうと、私が性同一性障害だと見破られるのがこわかったのです。クリスティーンについての本に完全に魅惑された私は、ついにはその本を図書館から盗んでしまいました。

この本を読んでからは気分が高揚してきました。こんなことが実際にあること、また何か直す方法があることがついに分かったからです。十代に入った頃の私には大きな希望となったのです。もし私の「障害」がもっと悪くなったとしても、もう少し歳をとれば何か直す方法があるだろうこと、またもう自分一人ではないと分かったことが大きな救いになりました。

ただ毎日の学校生活はちがった世界で、みんなと同じことをし、同じような行動をとることを期待されました。自分の内にある女性と闘うように努め、男性であることを証明しようとしました。あらゆる努力にもかかわらず女性であるという感覚は日増しに強くなっていき、この心の葛藤が私の人生をみじめなものにしたのです。

私は他の男の子のするスポーツや乱暴な遊びにはぜんぜん興味を引かれませんでした。気乗りのしないままやってみましたが、スポーツには向いていないことが分かっただけです。女の子と遊んだり、おしゃべりするのが好きだったけど、10代そこそこの女の子はまわりに男の子がいるのをいやがったし、男の子たちはまた女の子と遊ぶ私を見るとさんざんからかっていじめる。私も恰好をつけるため、10代のはじめには「女の子なんか大嫌いだよ」と虚勢を張っていたものの、本心は女の子の仲間に入りたくて悶々としていたのです。

まわりの男の子たちに自分の男らしさを見せつけるため、13歳になった私はタバコを吸い始め、スティーブや他の荒っぽい男の子たちに交じって、ちょっとした盗みや空き巣のような犯罪行為もしました。タフな男の子だと思わせたかっただけですが、やはり心の中の女性としての意識はぜんぜん変わらず、盗みまでして男になるのはよくないと気づき、そのグループからは離れました。

高校を卒業すると、髪を長くのばし音楽バンドの一員として数年間を過ごしました。長い髪の毛だけでなくミュージシャンとしての生活、またその時代の服装の自由さがありがたく、外見は女性らしく振る舞えたので、私の人生の中では非常に快適な時期でした。私の付き合った人たちは大変大らかで、みんなと仲良くできました。バンドのメンバーの何人かはホモで、少なくとも一人はバイセクシュアル(両性愛者)、残りは普通の異性愛者でした。性的指向や個性は違っていても、みんなが仲良く暮らすことができました。

大学時代
私の大学時代は音楽中心生活の延長として大変楽しく過ごせました。ただ変わったのは女性たちと「ガールフレンド」の関係ができて、女の一員として振る舞えるようになったことです。その女友達とはキスやセックスなどとは関係なく、ただ友達同士として一緒の時間を過ごし、おしゃべりしたり、ショッピングに出かけたり、内緒話をしたり、同じベッドで寝たこともありました(パーティのあとでザコ寝するようなセックスなしの関係です)。シャーロットとはとくに仲がよく、一緒に寝てもセックスなどは考えたこともないような本当の意味の親友関係でした。

バンドのメンバーを除いては、私の友達はみんな大学生の女性だけで、私の人生ではとても幸せな時期でした。心の中で私がどう感じていたかお母さんはぜんぜん気がつかなかったと思いますが、それは私が言わなかったのが悪いのです。もっと前に言っておけば、今になって大きなショックを与えることもなかったと思います。でも、最近になるまで怖くてだれにも話す気になれなかったのです。

大学にいる時に性同一性障害者や性転換手術についての情報を調べ始めました。今でこそ私はその存在を知っていますが、それまではぜんぜん情報もなく知識もなかったのです。その当時の私の頭で考えられることは、遠いヨーロッパまで行って性転換手術を受けること、それには恐らく10万ドル以上のとてつもないお金がかかることぐらいでした。自分の体を女性に戻せない、しかも自分を女性としてしかイメージできない心の中を考えると、出口をふさがれたような、とても重苦しい気分が続きました。

大学時代には心理学を専攻して学位も取りました。それは実際には、自分の心の中の女性としての感情を説明するための勉強であり、自分自身を治療しようとする試みだったと思います。ところが、1970年代の心理学というのはひどいものでした。性転換症やジェンダーの問題についての情報は非常に限られたもので、性転換症についてのわずかな解説は「異常心理学」としてしか取り上げられていないのです。異常心理と言われては気分が滅入るばかりで、ますます心の中で救いのない葛藤を強いられました。人類学にも興味があり学位も取りました。人類学はジェンダーの問題なども含めた人間の多様性を研究するもので、心理学で異常心理としてレッテルを貼る考え方に抵抗するのには大いに助けになりました。

大学在学中に結婚しましたが、最初の妻には私の心うちは打ち明けませんでした。妻の気づかないように彼女のドレスを借りて女装したりもしました。この時期に私はもう一方の極端に走ることになり、自分が男であることを証明するため、こともあろうに私は警官になったのです。警官ほど男臭い仕事はないですよね。しかし、これは思惑通りにはいかず、ぜんぜん助けになりませんでした。心の中の女性は消しようがなかったのです。

(長文のため2回に分けて掲載します)
(翻訳文責: 島村政二郎)