2010年8月7日土曜日

FTM - 世界初のペニス成形手術


『世界最初の人造男性』 《The First Man-Made Man》

FTM性転換手術に関して記録に残る歴史的な資料は少ないものの、確実だと思われるのはアメリカの女性作家ペイガン・ケネディ著になるノンフィクション(2007年刊)“The First Man-Made Man” 『世界最初の人造男性』という本に詳細なドキュメントとして残されています。それによると、第二次世界大戦直後の1946年から49年にかけて行われた、英国のハロルド・ギリーズ医師がトランスセクシュアル男性のマイケル・ディロンに行ったFTM手術が最初だそうです。

誤解をまねかないように付け加えると、世界最初というのはホルモン療法から始まって近代的な手術法で行われた最初の性転換手術ということで、はるか昔から原始的な方法による性転換手術らしきものが世界のあちこちで行われていた証拠はあります。また、マイケル・ディロンというFTM患者が上流階級出身で、高等教育を受け、大学で医学を勉強し、自らも医師の資格を持っていた人物であり、その後の人生で数奇な運命をたどったということも注目を集める理由でしょう。

この著作が発表されるとニューヨークタイムズ紙、サンフランシスコ・クロニクル紙などのメディアの書評、その他書評専門誌やウェブサイトが取り上げ、どれも大変好意的な書評を掲載しています。それはこのノンフィクションがまさに小説を思わせるストーリー性があり、登場人物、社会背景、英国、アメリカ、インド、チベットと舞台がつぎつぎと変わり、主人公マイケル・ディロンのミステリアスな最期など、小説を思わせる面白さがあるからでしょう。

それぞれの書評は違ったアングルから焦点を当てているので、それら複数の書評からエッセンスを取り出し、著作を読まなくでもこの歴史的な人物を客観的に把握できるよう、以下のように要約してみました。

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世界最初の人造男性』 《The First Man-Made Man》
著者ペイガン・ケネディ(アメリカの女性作家。ノンフィクション、小説、伝記など)

まだ若手ながら幾つかの文学賞を受賞している。入念な資料調査やインタビューを含めた豊富な資料をもとに、裏づけのあるノンフィクションを構成していく才能は高く評価されている。マイケル・ディロンの人物写真だけでなく術前・術後の性器の写真も入手しているが、SRSという特異な分野だけに著書ではその類の写真はいっさい公開していない。
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マイケル・ディロン(1915-1962.女性として英国上流社会の家柄に生まれ、子供時代の名前はローラ・ディロン。名実ともに世界初のFTM性転換者となり、47歳のときインド北部の国境地帯で原因不明の死を遂げる)

ローラ・ディロンはこども時代から自分が他の誰とも違っているのに気づいていたが、どこがどう違うのか言葉には表せなかった。やがて、思春期を迎えて胸が大きくなってくると、女の身体に閉じ込められた男であると確信するようになる。20世紀初頭のイギリスでは、卵巣や精巣の役割などまだミステリーゾーンの彼方にあり、ホルモン剤を使って自分の性を変えようなどという発想は想像もできなかった時代である。

オックスフォード大学在学中は同性愛者として振舞ったが、やはりしっくりこなかった。トランスセクシュアルとかトランスジェンダーという言葉さえ生まれていなかった時代である。レズビアンの友人も周囲にいて女性には惹かれたものの、性的に親密な関係には興味がなかった。

男へのトランジション
1938年に性の問題を専門とする軍医がいると聞き相談に行ったところ、話を聞くや否や追い返されたが、薬だけ渡してくれた。それがテステステロンというホルモン剤であった。数週間もたたないうちに声に深みがでるようになり、頬にはひげが生えてきた。これで自信を持ったローラ・ディロンはマイケルという男性名に改名する。テストステロン服用を始めてからは肩幅も広くなり、ひげも生えた彼は、紳士の集まる社交クラブに出入りしてもだれも変な目でみることはないほどの変身であった。

しかし、ペニスなしにどうやって男になれるか?この問いに勇気を与えてくれたのが、イギリスで最初の成形外科という分野を切り開いた外科医ハロルド・ギリーズ医師だった。1946年から49年にかけて13回に及ぶ手術を施し、ディロン自信が自慢するほどの立派なペニスをもつ男性が誕生した。これは医学史にも残るべき成形外科手術の快挙と言ってもよい出来事である。

この本の著者ペイガン・ケネディ自身が手術前・手術後の写真を見たときの感想は、「フランクフルト・ソーセージみたいで、異様なくらい太く、なめらかな皮膚をしていて、その先端には穴があった」。ペニスの材料は身体の他の部分(脚と腹部)からの移植であり、おそらく今日行われている標準的な手術方法はこれに準じたものではないかと想像される。

ケンブリッジの医学校で医学を勉強していたマイケル・ディロンは、『自己とは―倫理と内分泌学の研究』という、性転換症に関する彼の分析をまとめた近代科学の先駆けともなる本を出版した。この本でディロンはホルモンと性転換症の関係、性認識と性の欲望を分類する方法論を考えだした始めての学者の一人ともなった。彼の主張では、クロスドレッサーと性転換症者は全く異なるカテゴリーに属する。また、生まれながらの性認識を捨てるように執拗に説得しようとする精神科医の態度に異を唱え、性認識はまだ母親の胎内にいる内に発達するものだと唱えた。自らの性別を決めるには、まず自分に聞いてみることだ。「本来の性とは身体の外見には関係なく、自分が男性であるか、女性であるか、または両者の中間である、という心理構造からくるものである」との持論を展開している。

この本が世間の注目を集めることはなかったが、その後のディロンの人生を大きく変える転機となった。この本を読んで彼にアプローチしてきたのが、MTFトランスセクシュアルのロバータ・カウウェルである。1949年のことで、カウウェルは男性から女性へのトランジションに際してディロンが助けになってくれることを期待したからであった。それは、当時の英国では兵士として国のために働ける男性が睾丸を除去することは法律で禁止されていたから、開業医には頼めなかったからである。

今では医師の資格を持つディロンは、魅惑的な容姿のカウウェルに恋心を抱き、彼女を助けるために睾丸除去の手術を施してやる。膣成形手術はディロンの恩人であるギリーズ医師が行うことになった。1951年に行われたこの手術は、近代的なMTF性転換の世界初めての手術となる。コペンハーゲンで手術し、1954年にニューヨーク空港にブロンド美女として降り立って世界に名をとどろかせた、クリスティーン・ジョーゲンセンに先駆けることおよそ2年前のことである。この事実はカウウェルが「ロバータ・カウウェル物語」という自伝を出版する1954年まで世間に知られることはなかった。

第三の性
カウウェルの自伝出版からやがてディロンの女性から男性への性転換手術がマスコミの知るところとなる。クリスティーン・ジョーゲンセンの場合は男性から女性への性転換であったが、女性から男性への性転換も可能だと知って驚いたマスコミは、ディロンを好奇の目で追いかけ始める。ディロンは絶えず周囲に目を配りながらの生活の強いられるようになった。

カウウェルに恋心を抱くディロンはプロポーズしたもののあっさりふられてしまう。1958年、失意のディロンは、船医として船に乗りアメリカの港町ボルティモアに行く。そこではすでに大衆紙がかぎつけていて露骨な取材攻勢にあい、ディロンは好奇の目を避けるためインドに渡る。そこでイギリス人の僧侶が運営するテラヴァダ仏教の僧院で修行僧となり、仏教に心の安らぎを感じはじめる。しかし、インド仏教には「第三の性」に属する者は僧侶にはなれないという戒律があるのを知ることになる。2500年前の宗教が規定する「第三の性」とは自分のことだと失望したディロンは、1959年の秋がくるとわずかの身の回りの物をまとめてインドの僧院に別れを告げる。

チベット仏教への帰依
1959年は中国がチベットに侵入して新政府を設立した年で、多くのチベット人がインドに亡命していた。飢えと悲嘆にくれるチベットのリーダー格の人物も多く、運よく会えた高名なチベットの僧侶は、第三の性であろうがなかろうが、僧侶になるのはなんら問題ないと教えてくれた。

また、サンスクリット大学のチベット文化にくわしいい教授から、何百年も前から純粋なチベット仏教の戒律をかたくなに守っている僧院があることを聞いて惹かれたディロンはそこに向かおうと決意する。戦争状態にあったインドと中国にはさまれた小さな国にあり、旅行者が自由に行き来できるところではなかった。ディロンはヒマラヤ山中の秘境にあるこのリゾンの僧院にやっとたどり着き、頭を丸め、黄色のローブをまとい仏教僧になりたいとの一念で修行僧の生活にはいる。過去の自分や俗世のしがらみから解き放たれたディロンは、子供の修行僧たちに交じって食事作りや清掃などの下積み生活に明け暮れるうちに、自らを客観視する余裕を得て心から笑える自分を発見し、生まれて初めて心の平安を感じるようになる。

ディロンはチベットへの入国ビザ更新のためインドに旅行し、そこに滞在中にすでに書きためてあった自伝の原稿を書き上げてロンドンの出版社に送ってあった。その原稿の表紙には著者マイケル・ディロンの本名の下に彼の仏教名ロブサン・ジィヴァカとタイプされていた。そこにはタブロイド紙のスクープを待たずに自らから仮面をかなぐり捨てたディロンの強い意思があった。しかし運命は皮肉で、リゾンの僧院への帰路に泊まったホステルで、原因不明の病にかかり謎の死を遂げてしまう。毒殺といううわさもあった。1962年、ディロンは47歳であった。火葬に付された彼の遺灰はヒマラヤ山中に撒き散らされたという。

ディロンの自伝の原稿を受け取った出版社は、准男爵の爵位をもつディロンの弟から名誉毀損で告訴されるのを恐れて、出版には手をつけようとしなかった。マイケル・ディロンがローラ・ディロンとして女の子の服装に抱いた嫌悪感、男になりたいという抑えようのない衝動、女の身体を男に変えたテステステロン、ペニスを得るために延々と続いた外科手術、などについての自らの感情を隠すことなく赤裸々に語ったその原稿は、今でもロンドンの地下倉庫に保管されたままである。

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関係人物背景

ハロルド・ギリーズ医師 (1882-1960)
ニュージーランドで生まれたが、医学の勉強のためイギリスに渡り、ケンブリッジ大学で勉強する。第一次世界大戦中に若手の外科医だったギリーズ医師は、戦闘で顔にひどい傷を負った多くの兵士を見るに見かねて、英国戦争局に何度も足を運び、気の毒な負傷兵士の成形手術のために陸軍病院に特別な手術室を用意するように説得した。これが成形外科が医学の新しい分野として受け入れられるきっかけとなり、成形外科の父とも呼ばれる。第二次大戦後にギリーズ医師は成形手術専門のクリニックを開設し、1946年から49年にかけてマイケル・ディロンに13回におよぶ手術を施し、立派なペニスを与え、始めての成形手術による「人造男性」を世に送り出した。

またギリーズ医師は、1951年5月には、ディロンの片思いの相手でもあったトランスセクシュアル女性ロバータ・カウウェルに初めてのMTF転換手術も施し、本格的なSRSの先駆者ともなった。これは1952年から54年にデンマークで手術を受け世界にセンセーションを巻き起こしたアメリカのMTF女性クリスティーン・ジョーゲンセンより2年ほど早かったが、その事実が世間に知られたのは1954年にロバータ・カウウェルの自伝が出版されてからであった。

ペイガン・ケネディの著作がなかったら、世界で始めてFTMとMTFの性転換手術を行ったギリーズ医師の歴史的な業績は、クリスティーン・ジョーゲンセンの華やかな名声の陰に隠されたままになっていたかもしれない。

ロバータ・カウウェル(1921年生まれ。MTF女性で男性時の名前はロバート)
父親は外科医で陸軍中将、彫刻家、音楽家など多彩な才能の人物。母親も社会活動家、ピアニスト、歌手としても知られる。姉と弟のいる裕福な家庭に育つ。ロバートは結婚して二人の子供をもうけるが、自らの体の異変には悩んでいた彼は、各地の医師を訪れ診断を受け、女性の特徴を備えていることを確信する。1952年には妻と離婚するが、すでに戸籍上の性別は女性に変更済みであった。

第二次大戦中はイギリス空軍のスピットファイア戦闘機のパイロットであり、ドイツで撃墜され終戦まで捕虜生活を送る。戦後はレーシングカーのドライバーとして活躍した。マイケル・ディロンと知り合いになり、間もなく彼女も同じギリーズ医師よりイギリスでは初めてのMTF性転換手術を受ける。当時のイギリスでは性転換手術を受けたのはディロンとカウウェルの二人だけであった。カウウェルは1954年に自伝『ロバータ・カウウェル物語り』を出版し、その魅惑的な容姿もあずかって一躍有名になった。

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