2007年4月13日金曜日
性指向のパートナーは遺伝子が決める
同性愛とGIDとは別物であるとはいえ、GIDにも異性愛者も同性愛者もいます。この記事にもあるように、誕生前の遺伝子の作用がその後の性指向や性衝動を決定づけている可能性は大いにあり、まだ定説でないとはいえ、この分野のアメリカの専門家の見解として参考にして頂ければと思います。
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Pas de Deux of Sexuality Is Written in the Genes
By Nicholas Wade, The New York Times
April 10, 2007
性的な欲求ということになると、進化の法則は偶然にまかされることはまずない。人間の性行動は自由気ままに選べるものではなく、あらゆる過程で遺伝子プログラムが誘導していると、生物学者たちは気づき始めている。
異性間の性衝動は選択によって選ぶものではない。ストレートな男は女を相手として選ぶように仕向ける神経回路があり、ゲイの男にはほかの男性を求める神経回路がある。女性の脳には、自分と子供のために最善の保護を与えてくれるような男性を選ぶために、神経回路を整備する能力さえあると思われる。
その他の神経回路の働きも手伝って、ロマンチックな恋愛や長期の同居生活などを可能にするように、性行動に関する取り決めはすでに遺伝子により決定済みである。欲望が人間の性行動の根源だと思われがちであるが、それは長いドラマの中段の一幕にすぎず、台本のほぼ全体が遺伝子に書かれている。
母親の胎内では、胎児の身体はすべて女性とデフォルト設定されていて、男の性を決定づけるSRYとして知られる遺伝子が存在する場合だけ男性になる。この優性遺伝子はY染色体の誇るべき、また唯一とも言える属性で、これが卵巣になる運命の生殖組織を脇道にどかせて精巣(睾丸)になるようにポイントを切り替える。精巣から出るホルモンは主にテストステロンで、これが男性の身体を形成していくことになる。
過去10年間にわたる研究の成果として、脳はれっきとした性器官であり、男と女はそれぞれ根本的に異なるバージョンの機能をもっている、という思いも寄らぬ事実が明らかにされてきた。これは身体全体だけでなく、脳をも完全に男性化するというテストステロンの芸術的な仕事に他ならない。
男性と女性の脳の違いはあったとしても、それは小さな違いか何かの偶然の結果によるエラーで、ごくまれな少数のケースにしか見られない、という従来からの説は間違いである、とカリフォルニア大学アーヴァイン校のラリー・ケーヒル博士は述べている(Nature Reviews Neuroscience)。脳内で高度な情報処理の大部分を行う、広い面積を占める脳の外側の層である大脳皮質は、女性の方が層が厚い。最初の記憶装置として作用する脳海馬は、女性の脳の半分以上を占めている。
脳の働きをイメージ化する技術の進歩により、同じことをするにも男と女は脳の使い方が違うということがわかってきた。大脳側頭葉の核である扁桃体は、感情の強弱により記憶に優先順位をつける作業をうけもつ左右に一対ある器官であるが、女性は左の扁桃体を、男性は右側を使う傾向がある。
人間は文化の影響を強く受けるとはいえ、人間の脳は男と女の間の機能には明確なパターンの違いがあるのにはもはや驚くにはあたらない。男の脳はその性的欲望の対象は女性に向けられるように設定されている。その最も顕著な例は、包茎の手術ミスでペニスを失ってしまい、女の子として育てられた男の子のケースである。女の子として育つようあらゆる社会的な配慮がなされたものの、成熟するに従ってパートナーとしては男でなく女性を選ぶようになっていった。
脳の男性化が始まると、女性を好ましい思わせる何らかの神経回路が形成されていくものと思われる。そうだとすると、ゲイの男性においてはこの回路の配線は違っているはずである。欲望を感じる対象の男と女の写真を見せる実験では、ストレートの男性は女性を、ゲイの男性は男の写真を選んだ。
このような実験を女性に行っても同じような明確な結果は得られない。女性がストレートかレズビアンか自己申告しても、「女性の性的興奮の相手は無差別と言ってもいいぐらいで、男でも女の写真でも興奮を感じるようだ」、とノースウェスターン大学の性指向の専門家マイケル・ベイリー博士は言っている。「女性が性指向をもっているかどうかさえ、はっきりしない。ただ、女性は性的に好む相手はちゃんとわかっていて、非常に選り好み傾向が強く、ほとんどの女性は男とのセックスを選ぶ。」
ベイリー博士によると、性指向と性的興奮を司る神経回路のせいか、男は外に出てセックスの相手を探すのに対し、女性はセックスを求めてやってくる相手を受け入れるか拒むかに神経を使っているように考えられるそうである。
ミシガン大学の神経科学者マーク・ブリードラブ博士も、男女間の性指向の違いについては同じような考えを持っている。「たいていの男性はどっちのセックスを追求したいか、頑固なまでにはっきりした考えを持っているのに反して、女性の方はもっと柔軟性がある。」
男性の性指向については、誕生前にもう決まっているようだ。「この問題を研究している学者のほとんどは、男性の性指向を決定づける先行条件は人生の早い時期、おそらく誕生前に、作られていると確信している。女性の方はと言えば、同性愛者として生まれてくる人もいるであろうが、人生かなり年数がたってからそこに到達する人がいるのも確かである。
性行動というのは単にセックスのことだけではない。ラトガーズ大学の人類学者ヘレン・フィッシャー博士は言う。「三つの主要な脳神経システムが進化して、人間の再生行動に方向付けを与えるようになった。一つは、パートナーを探すように仕向ける性衝動である。二つ目は、特定のパートナーに結びつけようとするロマンチックな求愛プログラムである。三つ目は、親としての役割を果たすため長期にわたり生活を共にしたいという、長期的な結合を求めるメカニズムである。
「ロマンチックな恋愛は、初期の熱烈な段階では12ヶ月から18ヶ月続く、というのが人種・文化を問わず共通に見られる現象であり、脳にそのような回路が備わっていると思われる。」、という見解をフィッシャー博士は昨年発表している。脳をイメージ化した研究では、被験者が恋人の写真を見せられると、脳内のごほうびと認識する特定の部分が活発な反応を示すことが検証されている。
男性と女性における同性愛を理解するため、研究者たちは多大な努力を傾注していろいろな可能性を探ってきた。例えば、男性のゲイは遺伝子との関連からみて遺伝的なものではないかという見解であるが、ゲイの男性で子孫を残す割合はストレートな男性の約5分の一しかないことを考えると、同性愛と相性の良い遺伝子は急速に世界の人口から消えてしまう運命にあることになり、現状にそぐわない。
しかし、まだ可能性として残る説がある。それは、他の家族に子孫が多く生まれるチャンスを増やすために執拗に生き残る遺伝子があり、同性愛はその遺伝子の副産物として生まれるのではないか、というものである。ある調査によると、ストレートの男性にくらべるとゲイの男性には親族が多い、とくに母方に多い傾向があるそうである。
ベイリー博士は、同性愛の影響はもっとはっきりした形で現れるはずだと考えている。つまり、同性愛と相性の良い遺伝子が次の世代にわずかしか引き継がれないなら進化の法則で選ばれるはずはない。その意味では、男性の同性愛は進化論的には不適合であるとしか言いようがない。
同性愛の起源についてはもっと単刀直入な手がかりが指摘されていて、それは男兄弟の誕生順というものである。二人のカナダ人学者、レイ・ブランチャードとアンソニー・F・ボガートによると、複数の年上の男兄弟をもつ男性が同性愛になる可能性は目立って高くなるという。姉の数は問題にならず、また兄たちが同じ家に同居して生活を共にしているかどうかも関係ない。
この見解の意味するところは、男性同性愛は母親の子宮内部でのある出来事により引き起こされるもので、例えば、引き続き何回か男の子を妊娠したことへの母親の免疫反応ではないか、と昨年の学会誌に発表している。反男性の抗体が組成され、それが普通なら誕生前に男性化する脳をその過程で妨害するからではないか。ただ、そのような抗体は実際にはまだ検出されてはいない。
男兄弟の誕生順という説は実際には大きな影響をもっている。1パーセントから4パーセントの男性がゲイであると推定すると、約15パーセントのゲイ男性はその同性愛の原因が兄弟の誕生順に起因するといえる。また、兄の数が一人増えるにつれて同性に魅力を感じる可能性は33パーセントも増えるのである。
性指向を決定づけるのに決定的な役割を果たすのは、誕生前に循環しているテストステロンの量であるという考えは前述の説からも支持されている。しかしながら、胎児のテストステロンの量は計ることができず、成人したゲイやストレート男性はそのホルモン量は同じで、誕生前のホルモン量に関しては追跡のしようがない。というわけで、信憑性は高いものの、あくまで仮説であって証明されたわけではない。
性行動と欲望の基本を理解しようとする最近の研究の成果は、遺伝子が脳の性区別に直接的な影響を与えている可能性があるという発見である。テストステロンやエストロゲンのようなステロイド・ホルモンが、男性と女性の脳を形作るのに主要な役割をまかされている、と専門家も長年信じてきた。しかし、UCLAのアーサー・アーノルド博士の発見によると、試験管の中では男性と女性の神経細胞はすこし違った行動をとるのが見て取れる。同じくUCLAのエリック・ヴィラン博士の昨年の発見では、少なくともネズミを使った実験では、脳のある細胞においてはSRY遺伝子が活動していることがわかった。SRY遺伝子の脳での役割は、テストステロン関連の活動とは全く違っており、女性の神経細胞はその同じ役割を別の方法で行っていると推測される。
脳に関連する遺伝子が異常なほど多く「X」染色体上に存在しているのは偶然の仕業だろうか。脳の機能に関連して「X」、「Y」染色体が急に脚光をあびるようになり、進化生物学者たちも注目している。男性はただ一個の「X」染色体しか持たないため、「X」の遺伝子の一個になにか有利な変異が起これば自然淘汰の原理が素早くそれに乗っかり推進してしまう。そこで、もし選り好みのきびしい女性が理想の男性パートナーに頭の良さを求めるとするなら、なぜ脳に関連する遺伝子が「X」に数多く集中して存在するのか説明がつくのではないだろうか。
この世界を回転させている原動力は欲望であることを、それでも疑いますか?
(訳責:島村政二郎)
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2007年4月10日火曜日
タイのゲイ文化
(写真は華やかなレディーボーイ中心の舞台ショーで、ゲイとは直接の関係はありません。人気グループは世界中で公演しています。美形のTSにとっては晴れ舞台です。)
よくタイにはゲイが多いというコメントを聞きます。本当でしょうか。たしかに明らかにゲイとわかる人、またはゲイらしく見える人が多く目に付くのは事実です。タイで有名な風俗業のことではありません。
サラリーマンや、ホテル、レストラン、旅行会社の窓口、店員、病院、などいたる所で見かけます。普通の男性の服装もいれば、うっすらと化粧している人もいます。しかも、本人だけでなく、同僚やお客もべつに気にしている様子はありません。これがいたる所で見かける昼間のゲイの普段着の姿です。風俗業は別格としても、日本にくらべればゲイが多いという印象は旅行者がもつ正直な感想でしょう。
これは要するにタイはゲイに対する寛容度が高いからです。偏見がないと言えばウソになるかも知れませんが、社会的に受け入れられているだけでなく、職業によっては一般人より優遇されている面もあります。たとえば、ホテルのフロント、病院などの案内・説明係、学校の職員、店員、ウェイター、などです。また普通の会社員でもべつに問題にされることはありません。
私のよく知っているサムイ島のリゾートホテルのフロントに二人のゲイがいました。マネジャーによると、まず他の女性の従業員とは男女間の問題は起こさない、ちゃんとした教育も受けている、お客さんへの接客態度がていねいで細かいことにも気が付く、普通の男性より真面目で頼りになる・・・など良いことづくめでした。
またバンコクのある専門病院でも同じような見方をしていました。そこは男性の接客スタッフは少数ですが全員がゲイで、しかも院長の方針でゲイしか採用しないという徹底ぶりです。べつに、院長がゲイというわけではなく、前述のようにゲイの方が女性以上に細やかな気配りができるので、患者へのサービス面で得策であるという理由です。たしかにこの病院は繁盛しています。
タイ人の会話の中でよくゲイの同僚の話がでますが、特別視している感じはまったくありません。それはゲイが社会的に受け入れられていて、生活にも仕事にも特別な支障なく社会参加ができているからです。そのため、「タイではゲイが多い」という印象につながっているのではないかと思います。
性同一性障害と同じように、同性愛も生まれる前から決まっていた性指向だとすると、タイに特別多いわけはなく、ほぼ同じ率で日本にもゲイが存在するはずです。歴史的にも日本にはゲイについての文献は多くありますが、違いは現在の日本社会の寛容度に差があり、社会的に表に出にくいため、目立たないだけではと思います。
宗教的な偏見から、アメリカなども一部の都会を除けば決してゲイには住みやすいところとは言えません。TSにはさらに偏見が強いようです。先日バンコクのPAIでSRSを終えたばかりのイタリア人女性と話す機会がありました。彼女の言うところでは、イタリアもカトリック教の影響がつよく決してTSにとっては住みやすい国ではない。できればタイに住みたいくらいです、と言っていました。
そのタイでもゲイにくらべれば少数派であるGIDへの理解度はまだまだ低いという印象を受けます。私のよく行くレストランのウェイトレスにTSの女性がいます。けっして美形ではない彼女ですが、ニコッと笑顔でかいがいしく働いています。華やかなナイトライフ向きでない彼女にも、このような職場はちゃんと用意されているのがタイ社会の救いです。
2007年3月29日木曜日
現地と帰国後のパーソナルケア
事前のカウンセリング
手術のために外国に行くには、かなりの勇気と決断がいります。手術自体が不安なのに、タイのことなどほとんど予備知識がない。タイ語はもちろん、英語もおぼつかない。入院中の医療ケアはともかく、帰国までの2週間は誰か個人的な面倒見てくれるだろうか。相談相手になってくれる人がいるだろうか。
病院の設備や看護ケアなどは大丈夫か。SRSに実績のある医師がいるのか。病院からホテルに移った後のケアは。回復期間中はどうやって過ごす。和食レストランはあるだろうか。帰国前には観光や買い物もしたいが・・・。
表だっては話題にできない手術のために、外国に行く。しかも東南アジアの発展途上国へ。タイでの手術は経費面では安いとはいえ、面談やメール、または電話による事前のカウンセリングなしに外国での手術を決断するのにためらいがあるのは当然のことです。
私のPAI認定のカウンセラーの役割はまさにこのためにあります。
帰国後のアフターケア
SRSは手術さえ無事に終わればそれで終了というわけではありません。PAIの熟練した医師チームの手術はわずか3時間で終わります。5日後には退院して、その10日後には帰国できます。これで基本的には医師の役割は終わりますが、帰国後のダイレーションなどの長期間の作業は患者さんの責任で行わなければなりません。外部の手術跡や内部が安定するには3ヶ月、6ヶ月、場合によっては1年という期間が必要です。
医学界の常識として、どんな手術でも完璧ということはありません。帰国後の回復期間中に不安な症状や、医師の見解を聞きたいことは大なり小なりでてきます。ほとんどのケースは時間の経過が解決する問題ですが、患者さんに立場からは心配事であることにはかわりありません。その場合には日本語で相談できる、また必要に応じてPAIの医師からの指示を仰げる仲介役が必須です。その役割もPAI認定のカウンセラーの私の守備範囲です。PAIのプリチャー医師と過去2年半以上にわたり、信頼関係を築いてきたことがお役に立てると自負しております。
[カウンセラー料]
私はいわゆる「エージェント」ではありませんので、基本姿勢としてSRSに関してはPAI以外の医療機関を紹介することはいたしません。SRSカウンセラーとしてのサービス料は頂きますが、個々のケースにより異なりますのでご相談に応じます。以下にメールでご連絡ください。
Email: masa.shimamura@gmail.com
2007年3月22日木曜日
GID情報はまず出版物から
自助グループも各地にありますが、出版物は日本のどこにいてもオンラインショップで簡単に手に入る時代です。特定の本を推薦することはしませんが、以下のリストを参考にして、ご自分の状況にあった本を選んでください。自らのGID体験を出版されたこれら当事者の方々の貴重な情報や体験談は、将来への指針と大きな勇気を与えてくれることでしょう。
GID関連出版物のリスト
出版物のリストは右のサイドバーに掲載することにしましたのでご覧ください。
2007年3月17日土曜日
SRSに至る道・母親への手紙(その2)
結婚と家庭生活
最初の妻と分かれてから、とても親しかった別の女性と親密な関係になりました。その女性と恋に落ちたのは、私にとって一番ふさわしいパートナーであり、私の人生の魂の友であると感じたからです。それが今の妻ジェリです。ジェリに対する愛情にもかかわらず、自分が女性であるという感情からはどうしても抜け切れませんでした。ジェリと私は結婚し、二人にとって当然の帰結だと思い、自然な気持ちから子供をもうけました。二人とも家族が欲しかったのです。そして私は自分の中の女性と闘うように以前にも増して努力するようになりました。
警察官の仕事柄で、世間にはホモが大勢いることも知りました。クリスティーン・ジョーゲンセンの記事も読んだりしましたが、実際は性転換手術にそんなに大金はかからないことや、アメリカでも行っていることなど、性転換ということ自体についても新しい知識を手に入れました。女装をすることも必死になって抵抗したものの止めることはできず、完全な女性になりたいという気持ちも同じでした。その内に妻ジェリが気づいて去っていくことを恐れ、必死になって自分と闘いました。ジェリに対する私の愛情が揺らいだことは一度もないことは、お母さん、信じて欲しいのです。
ジェリと家族を失いたくないため闘い続けた私は、勤務を離れると男の中の男にふさわしいと思われたバイク乗りになり、大酒を飲み、勤務中は危険な任務に進んで志願したりしました。しかし、こんな男っぽい行動はどうしても好きになれなかったし、そんな男に変わっていく自分という人間も好きになれませんでした。1990年にサウスダコタ州で催されたモーターサイクルラリーに参加し、アウトロー・バイククラブの連中と親しくなりました。オトコになるためには無法者のバイカーにならなければと思うと怖さ半分でしたが、アウトローのバイカーより男臭いオトコがいるか、心の中の女性感情など吹っ飛んでしまうぞ、という気持ちで突っ走りました。
ところが、このグループの行動でどうしても好きになれない行為を見たりしているうちに、自分はやはりとけ込めない仲間だと感じるようになりました。こうしなければオトコになれないのだったらもうオトコになるのは止めようと決心したのです。家に帰ると8年間つとめたモーターサイクルクラブの支部長をやめ、愛車のハーレーダビッドソンと付属品一式も売り払いました。あらゆることをやったにもかかわらず、女性であるという感情は依然として居座っていました。この悩みについては参考になる情報もなく、どこからも助けの手は来なかったのです。
お母さん、私の心の中の女性感情はますます激しくなり、このまま生き続けるのは我慢できない、なにか行動を起こさなければ、という気になりました。もうためらっている余裕はなくなりました。お母さん、私はただ内面の苦痛から解放されて幸せになりたかっただけです。本来の自分になりたかったのです。
私には依然として、自分はトランスセクシュアルという感情をもつ世界でも数少ない人間の一人にちがいないという気持ちが残っていました。だれにも本当のことは言えないという恐れでそれまでの人生を過ごしてきた私ですが、人生のパートナーである妻ジェリには本心を打ち明ける決心をしました。彼女が去って行かないことを祈りながら打ち明けました。そのジェリが愛情にあふれ、思いやりのある、強い心の支えとなる態度を示してくれたのは何よりの救いでした。行き着く結果がどうなろうと、私が本来の自分を見つけられるように何でも協力すると励ましてくれたのです。
行動開始
それから私たちはゆっくりと行動を起こし始めました。まずクロスドレシングを試してみましたが、鏡に映ったその自分の姿を見て顔色をなくしました。ジェリに手助けをしてもらったとはいえ、体がでかく、老けすぎで、男そのままという感じで、とても女性らしい姿ではなかったのです。気分が滅入りましたが、最初の幻滅にめげずにジェリと私は参考になる情報を求めて前向きに進んでいきました。
そのうち警察署の仕事では暴力犯罪班に配属になり、性犯罪捜査を担当する刑事になりました。ある日任務中に訪れたアダルト書店で、たまたまジェリも一緒だったのですが、クロスドレシング専門の雑誌を見つけ買い求めました。その雑誌のおかげで今まだ知らなかった世界に導かれ、本・雑誌、心理学的論文、個人の体験談、サポートグループ、社会活動グループ、医学関係者、病院・クリニックなど、この問題に関連する多くの存在を知ることになりました。
ゆっくりではありましたが、私たちはあらゆることを勉強しました。自分が単なるクロスドレサーではなく実際はトランスセクシュアルであるのに気づくにはそんなに時間はかかりませんでした。それは私がいつも感じていた感情そのものでした。そこで精神分析医、二人のカウンセラーの診断を受けたのち、やっと医学面での治療を始めることになりました。自分の心の中でいつも感じていた女性にマッチする体に、男の体を変えていくための準備を始めたのです。
SRSへの具体的ステップ
いま私の受けている性別再指定の治療法はゆっくりしたプロセスで、いろんな分野の医者や精神科医のチェックを受けなければなりません。私自身の最終目標ははっきりしていますが、医学関係者の方から次のステップに進むのを勧めることはなく、あらゆる資格条件をクリアした段階で本人が希望した場合にだけ、最終目標のSRS手術が許されるのです。
今の私は1995年8月から始めたホルモン治療により性別再指定を受けています。女性ホルモン剤のプレマリンと、男性ホルモンの産出を抑制するステロイド剤であるスピロノラクトンを服用しています。その結果、今まで不可能だと思っていた自分のイメージが目に見えるようになり、あの大柄の、老けた、男にしか見えない、という以前の感じはなくなり、不可能が可能になったのを感じます。自分の願うようには美しくはなれないとしても(まあしょうがないか)、女のドレスを着た男でなくなったことは確かです。
お母さん、この私の状態について親として負い目や責任を感じたりする必要はまったくありません。現時点での科学的な研究では、性同一性障害やトランスセクシュアルの原因としては、誕生前の胎児段階でのホルモンの影響やホルモンバランスの問題が指摘されています。その結果として身体的には一方の性の特徴をもち、性意識としては別の性の特徴をもって生まれてくる個々のケースがあるということです。性転換症についての最新の研究発表のどれを見ても、私のような症状の原因が誤った育児方法にあると指摘するものは皆無です。
この40年間というもの、心の中では女と感じていたので、自分をとりまく現実は不快であったものの、どうすることもできませんでした。ところが今では、かってなかったほど幸せで気分も楽になりました。精神的な苦痛もなくなり、いろいろあった健康上の問題も消えてしまいました。
お母さん、私のような症状は時間をかけて何回も何回もチェックし、さらにダブルチェックするという課程を踏んで治療しなければいけません。また途中でいつでも治療の過程をストップしてもかまわないし、中止するのを勧められる場合さえあります。自分で違和感をもつ場合にはそれを越えて先には進まないように指導されます。私の場合はそれらの関門を順次通過して今の地点まで到達したのです。
お母さん、参考までに今私のたどっている道程はこんなものです。
ジェンダーの問題に精通している精神科医に定期的に診断を受けること。SRS(性別適合手術)の許可の前には別の医師からのセカンドオピニオンを得なければなりません。ホルモン治療による性別再指定はすでに1995年8月から行っていて、今も続けています。
電気分解脱毛法による顔面の脱毛は痛いだけでなく時間がかかります。1ヶ月に6時間にまで減らせるようになりましたが、やっと50%終わった段階です。
リアルライフテスト。生活のすべての面で一日24時間女性として生活しなければなりません。これはSRS(性別適合手術)を受ける前に、女性としての生活に適応できるように準備するためです。
名前変更。これはいろんな法律的理由で実現が長引いていましたが、この夏の終わり頃には有効になります。(登録申請はもう済んでいて裁判所預かりになっています。) 今使っている名前はリンダ・アン・シンプソンですが、これが登録される正式の名前となります。
SRS(性別適合手術)。これは単なる整形手術だと思ってもらって結構です。1997年までは手術に進むつもりはありませんが、この手術の経験のある医師の何人かとはすでに連絡をとっています。世界中で30人ほどいますが、私なりに下調べをして何人かのお医者さんを検討して、今のところ一人か二人に候補をしぼっています。
お母さん、この手術は男を女に転換する手術ではありません。そんなことは不可能です。この手術は赤ん坊として生まれた時点での間違いを訂正しようとする試みと理解してほしいのです。また、これはセックスに関する問題でもなく、ジェンダー(性意識)に関するものです。セックスはこの問題とは関係なく、世間一般で言われているように、「セックスは両股の間にあるもので、ジェンダーは両耳の間にあるもの。」 ちょっとふざけた表現だとは思いますが、それは真実をついています。
このような告白を聞いたショックで、お母さんはどうしたらよいか途方に暮れているかと思いますが、お母さんの気持ちがよく分かるなどと軽々しく言うつもりは全くありません。同じように、他のトランスセクシュアルの人ならともかく、私が今どういう気持ちで生きているか、またこれまでどのような行き方をしてきたか、完全に理解してもらえるとはとても思えません。繰り返しになりますが、お母さんに言いたい一番大事なことは、私のこの症状はお母さんやお父さんには何の原因も責任もないということです。正直なところ、このジェンダーの葛藤があったことを除いては、とても幸せな子供時代を過ごせたと思っています。
私の友人や家族、それに職場の同僚などからはリンダとして受け入れられていて、気まずい反応はありません。ほとんどの場面で周囲から前向きな反応があるので、私自身うれしいと同時にびっくりしているほどです。また幸いなことに、最近では時代の雰囲気も変わってきていて、人々の受容度もひろくなり理解する人も増えました。ガンや糖尿病などの病状をもつ人を悪く言わないと同じように、私のような症状に偏見をもつ理由はないはずです。それでも、ある種の人たちとはトラブルに遭遇することも現実的にはあり得ることは承知しています。今までの人生で経験したいろいろな障害にくらべたら、これから起こりうる障害物を乗り越えるのは何でもありません。
ジェリも三人の子供たちも全面的に応援してくれています。これから起こりうる良いこと、悪いこと、みんなで話し合いました。将来に何が待ちかまえていようと直面する心の準備はできています。これ以上の素晴らしい人生があるでしょうか!
お母さん、このことのために私を見捨たり、愛するのをやめることのないように祈っています。私の状況をお母さんが簡単に受け入れてくれるだろうとは期待していません。ただ、むずかしいことはわかりますが、理解するように精一杯努めてくれることをお願いするだけです。
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リンダは1982年以来ジェリと正式に結婚して、3人の子供にも恵まれた幸せな家庭をもっていたものの、幼児期から自覚していた性同一性障害に悩まされ続け、愛妻ジェリの全面的なサポートを得て1997年1月にカナダのモントリオールで性別適合手術を受ける。現在は家族全員で、性的少数者に寛大なワシントン州シアトルに住んでいる。リンダは古巣の警察関係のアドバイザーなどの奉仕活動や、性的少数者に関する啓蒙活動、好きなジャズやニューエイジ音楽演奏などの生活を楽しみながら、ソフトウェア・テスト・エンジニアとしての仕事もしている。
妻ジェリはもともと大好きだったコンピュータをさらに勉強し、今はソフトウェアエンジニアとしての仕事と、リンダと学校に通う三人の子供たちとの家庭生活をエンジョイしている。
リンダの母。リンダが手紙を書いたその母親が、手術2年後の1999年に訪ねてきた。今や娘になった元息子とは何年も会っていなかったが、いろいろあった母親との気持ちのすれ違いも年月が解消してくれ、愛情に囲まれたリンダの家族とふれあった母親は心から再会を喜んでくれた。ただ一つの大きな意見の食い違いは、着る物とファッションのことで、母親と娘の世代の違いはどうしようもなかったそうである。
『クリスティーン・ジョーゲンセン (1926-1989)』
クリスティーン・ジョーゲンセンはデンマーク系のアメリカ人二世、ジョージ・ウィリアム・ジョーゲンセンとしてニューヨークに生まれ育つ。1952年から1954年にかけデンマークでホルモン治療に続き男性から女性への手術を受けた。性転換手術を受けた最初の人ではないものの、初めてマスコミにより公にされセンセーションを巻き起こした人として歴史に名を残す有名人になった。
また彼女の美貌と優雅な立ち居振る舞いを生かして、歌手としてもラスベガスやハバナでなどで名声を博する存在となった。その後の彼女の自叙伝(1967年刊)やその映画版(1970年公開)、各地での講演などの活発な啓蒙活動を通して、性転換症(トランスセクシュアル)は、同性愛者(ホモセクシュアル)や異性装者(トランスヴェスタイト)とは明確な違いがあることを訴え続け、世界の性同一性障害者を勇気づけた。二回の婚約歴はあるが、生涯結婚はせず、最後の2年間はカリフォルニアに移り住み、62歳で肺ガンと膀胱ガンにより世を去った。
(翻訳文責: 島村政二郎)
2007年3月16日金曜日
SRSに至る道・母親への手紙(アメリカ人)
『リンダから母親への手紙』 (その1)
(1996年6月20日。SRS手術前に書かれた手紙)
お母さん、このことは電話で言うには込み入っているので手紙の方がいいと思い書くことにしました。以前にちょっとだけ話したことがあるけど、私の症状は正式には性同一性障害というもので、普通はトランスセクシュアルと呼ばれています。話したいことはもっとたくさんあったのですが、なぜかお母さんとは真剣に話す機会がなかったのですよね。どれを取り上げても言いにくいことばかりで、私にとっては一生の葛藤として心の中で闘い続け、また隠し続けてきたことなのです。自分でも思った以上にうまく隠し続けられたとは思うけど、時には極端にはしる行動にはお母さんも気がついていたように、それは私にはとてもとても苦しい葛藤でした。
私のこれからの話は、内面奥深くにある感情や恐れの入り交じったことで、私自身も人生この時期になってやっと納得できるようになりました。お母さんには本心を打ち明けますから、できるだけ理解して気持ちを分かちあって欲しいと願っています。
幼児期の記憶
幼児期の早い時期から私は自分が女性だといつも感じていました。記憶に残っているのは2歳のときからで、その記憶は女の子のとしての記憶がほとんどです。具体的に時期のはっきりしている記憶は1957年の4歳の誕生日のものです。その時まで自分は女の子だと思っていましたが、突然その思いが打ち砕かれる出来事があったのです。その日はおばあちゃんの農場のベッドルームにいて、おばあちゃんが着替えしているときにパットおばさんが入ってきて、男の子の目の前でおばあちゃんがトップレスでいるのを見て、腰を抜かさんばかりに驚いたのです。その時のパットおばさんの騒ぎ様は想像にまかせますが、このとき初めて自分がずっと思っていたような女の子ではないと思い知らされたのです。
その次に記憶に残っているのは1959年の5歳のときです。それまでにも女の子であるという自覚はありましたが、この頃私はまだ小さかったものの、お母さんやお父さんが留守のときや眠っているときに、お母さんの服を着て自分が女の子であると想像しながら遊んでいたのです。サイズはぜんぜん合いませんが、大人になったらどのように見えるか想像をたくましくしていました。
パットおばさんとの最初の事件のこともあり、こういうことは普通ではないと感じていたので、お母さんやお父さんをはじめ誰にも話しませんでした。また自分が女の子であるとか女の服装をしたいという気持ちを抑えようとしましたが、このような感情を押し殺すのはどうしてもできませんでした。女の服装をすることで(クロスドレス)、ずっと内面で感じていた女の子の感じを実感として味わうことができたのです。
女の子であるという感覚と女性としての自分を表現したいという欲求は、大きくなるにつれて強くなっていきました。自分のような症状について知りたいと思っても何の情報もなく、年若い子供には手のとどく情報源も限られていました。それでも自分がなにかの病気で、どっかがおかしいとは感じていたので、だれにも話さず自分の中だけにしまっておきました。
学校生活
ヘシアスクールの6年生だった12歳のとき、クリスティーン・ジョーゲンセンという人が1953年に性転換手術を受けたことを知ったのです。どこからその情報を聞いたのか記憶にないのですが、彼女に関する情報を探し始めました。その夏にマウントプレザントの図書館でクリスティーンの半生を書いた本を見つけ出すことができました。ひと月の間図書館に通い、その本を少しずつ読んでいきました。借り出すこともできたのですが、係員にその本の内容がわかってしまうと、私が性同一性障害だと見破られるのがこわかったのです。クリスティーンについての本に完全に魅惑された私は、ついにはその本を図書館から盗んでしまいました。
この本を読んでからは気分が高揚してきました。こんなことが実際にあること、また何か直す方法があることがついに分かったからです。十代に入った頃の私には大きな希望となったのです。もし私の「障害」がもっと悪くなったとしても、もう少し歳をとれば何か直す方法があるだろうこと、またもう自分一人ではないと分かったことが大きな救いになりました。
ただ毎日の学校生活はちがった世界で、みんなと同じことをし、同じような行動をとることを期待されました。自分の内にある女性と闘うように努め、男性であることを証明しようとしました。あらゆる努力にもかかわらず女性であるという感覚は日増しに強くなっていき、この心の葛藤が私の人生をみじめなものにしたのです。
私は他の男の子のするスポーツや乱暴な遊びにはぜんぜん興味を引かれませんでした。気乗りのしないままやってみましたが、スポーツには向いていないことが分かっただけです。女の子と遊んだり、おしゃべりするのが好きだったけど、10代そこそこの女の子はまわりに男の子がいるのをいやがったし、男の子たちはまた女の子と遊ぶ私を見るとさんざんからかっていじめる。私も恰好をつけるため、10代のはじめには「女の子なんか大嫌いだよ」と虚勢を張っていたものの、本心は女の子の仲間に入りたくて悶々としていたのです。
まわりの男の子たちに自分の男らしさを見せつけるため、13歳になった私はタバコを吸い始め、スティーブや他の荒っぽい男の子たちに交じって、ちょっとした盗みや空き巣のような犯罪行為もしました。タフな男の子だと思わせたかっただけですが、やはり心の中の女性としての意識はぜんぜん変わらず、盗みまでして男になるのはよくないと気づき、そのグループからは離れました。
高校を卒業すると、髪を長くのばし音楽バンドの一員として数年間を過ごしました。長い髪の毛だけでなくミュージシャンとしての生活、またその時代の服装の自由さがありがたく、外見は女性らしく振る舞えたので、私の人生の中では非常に快適な時期でした。私の付き合った人たちは大変大らかで、みんなと仲良くできました。バンドのメンバーの何人かはホモで、少なくとも一人はバイセクシュアル(両性愛者)、残りは普通の異性愛者でした。性的指向や個性は違っていても、みんなが仲良く暮らすことができました。
大学時代
私の大学時代は音楽中心生活の延長として大変楽しく過ごせました。ただ変わったのは女性たちと「ガールフレンド」の関係ができて、女の一員として振る舞えるようになったことです。その女友達とはキスやセックスなどとは関係なく、ただ友達同士として一緒の時間を過ごし、おしゃべりしたり、ショッピングに出かけたり、内緒話をしたり、同じベッドで寝たこともありました(パーティのあとでザコ寝するようなセックスなしの関係です)。シャーロットとはとくに仲がよく、一緒に寝てもセックスなどは考えたこともないような本当の意味の親友関係でした。
バンドのメンバーを除いては、私の友達はみんな大学生の女性だけで、私の人生ではとても幸せな時期でした。心の中で私がどう感じていたかお母さんはぜんぜん気がつかなかったと思いますが、それは私が言わなかったのが悪いのです。もっと前に言っておけば、今になって大きなショックを与えることもなかったと思います。でも、最近になるまで怖くてだれにも話す気になれなかったのです。
大学にいる時に性同一性障害者や性転換手術についての情報を調べ始めました。今でこそ私はその存在を知っていますが、それまではぜんぜん情報もなく知識もなかったのです。その当時の私の頭で考えられることは、遠いヨーロッパまで行って性転換手術を受けること、それには恐らく10万ドル以上のとてつもないお金がかかることぐらいでした。自分の体を女性に戻せない、しかも自分を女性としてしかイメージできない心の中を考えると、出口をふさがれたような、とても重苦しい気分が続きました。
大学時代には心理学を専攻して学位も取りました。それは実際には、自分の心の中の女性としての感情を説明するための勉強であり、自分自身を治療しようとする試みだったと思います。ところが、1970年代の心理学というのはひどいものでした。性転換症やジェンダーの問題についての情報は非常に限られたもので、性転換症についてのわずかな解説は「異常心理学」としてしか取り上げられていないのです。異常心理と言われては気分が滅入るばかりで、ますます心の中で救いのない葛藤を強いられました。人類学にも興味があり学位も取りました。人類学はジェンダーの問題なども含めた人間の多様性を研究するもので、心理学で異常心理としてレッテルを貼る考え方に抵抗するのには大いに助けになりました。
大学在学中に結婚しましたが、最初の妻には私の心うちは打ち明けませんでした。妻の気づかないように彼女のドレスを借りて女装したりもしました。この時期に私はもう一方の極端に走ることになり、自分が男であることを証明するため、こともあろうに私は警官になったのです。警官ほど男臭い仕事はないですよね。しかし、これは思惑通りにはいかず、ぜんぜん助けになりませんでした。心の中の女性は消しようがなかったのです。
(長文のため2回に分けて掲載します)
(翻訳文責: 島村政二郎)
2007年2月23日金曜日
SRSに至るまでの道・当事者体験談
(関西在住・HHさんより寄稿頂きました)
~幼少のころ~
両親、祖母にいつも殴られていました。殴られたことしか記憶にないくらい・・・
何かにつけて殴られました。納屋に閉じ込められる、木に括られる、「妹を泣かした」といっては殴られ、いとこが悪さをすれば私が殴られる・・・
「お前は男だから・・・お兄ちゃんだから・・・」
男の体であるが故、それだけの理由で殴られる・・・ 私は女なのに男の体を持って生まれたから、周りの大人に殴られる。私を可愛がってくれる大人は誰もいなかった。イジメも酷くうけた。一人ぼっちだった・・・
私がきちんと女の体で生まれてこなかったから・・・
小学高学年のころには、お家に誰もいないときにこっそり女物を身につけ、お化粧をして心の平常を保っていました。でも、後ろめたい気持ち、罪悪感に苛まれる。きっと、こんなことで安堵する自分を、反対の性だと思う人間なんてこの世で私一人に違いない・・・
ロシアの宇宙衛星で覗かれて世界中の人達が私を笑っているに違いない・・・
そんな妄想を抱いていた時期でした。
~中学生時代~
中学入学にともない男子は強制的に丸刈りを強要されます。最後まで抵抗しました。無理やり丸刈りにされてもめげず、また髪を伸ばそうとしましたので生活指導の先生からよく「もみあげ」を引っ張られました。それでも懲りずにまた・・・
この時期、イジメも酷かったです。友達など一人もいなかった・・・。修学旅行なんて、みんなに袋叩きにされて泣いていた思い出しかありませんから・・・
中学は男子、女子と何かにつけて分けられますよね。自分が男子のほうに分けられるのが屈辱的でした。自分も好きな髪形をしてセーラー服をきて、ブルマをはいて、スクール水着もワンピースで、授業も技術でなく家庭科を学びたかった。
お家でこっそり女物を身に着けて丸刈り頭の自分を鏡に映したとき、どうしようもなく惨めになって、ペニスをとってしまえば女になれるという衝動にかられたことも・・・
中学生の浅はかな知恵で、刃物では血が噴出すから電気で溶断しようと考えました。電気コードの被覆を剥きペニスに巻きつけ、コンセントにプラグを差込みました。次の瞬間、ブレーカーが落ちました。2本の線を裸線にしてグルグル巻きにしたので短絡を起こしてしまったのですね。こうしてあえなく失敗に終わりました。
~就職から結婚へ・・・~
高校は工業高校を選びました。早く自立して親元から離れたかったのと、中学時代の知り合いが誰もいない学校へ行きたかった。ただそれだけの理由です。
就職してからもずっと女装癖???は続きました。20歳くらいのとき、とうとう精神的に参ってしまい拒食症になりました。同時に夢遊病もあり、眠っている間にバイクに乗って移動していたこともあったんです。
この頃、テレビではニューハーフさん達が大人気で・・・私もなりたかった。仕事を辞め、通院しながら繁華街をウロウロしました。ニューハーフになりたかったんです。
しかし、当時はネットもなく情報も乏しい時代ですから、そこへ辿り着く術がなかったのです。仕方なく再就職しました。その時は諦めたんです。人との繋がりは一切なく距離を置いて生きてきました。
そんな私に転機が訪れたのは、それから間もなくの事・・・一人の女性との出会い・・・何となく惹かれこの人と一緒に居たいと思うようになりました。今にして思えば私は親の愛情を知りません。彼女に母親を見ていたのでしょうね。
自分が男性として女性とセックスをするということが、とても屈辱的でした。ですから彼女とも結婚後十数年、夫婦生活と呼ばれる行為は殆んどありませんでした。それこそ両手を使って数えることが出来るくらい・・・
それでも娘を一人授かりました。
~インターネットを通して~
それから随分月日は流れましたがインターネットという環境が私を変えました。
「性同一性障害」ネットを通してそれに辿り着いたんです。それから様々な情報を貪るように調べ、自分が幼い頃から抱いていたものはこれかも知れないと思うようになり、大阪医科大病院のジェンダークリニックの門をたたきました。
それと同時に女性ホルモンの個人輸入代行のサイトを知り、入手してしまいました。 「プレマリン」です。入手してから随分悩みました。今の自分を捨て家族を裏切ってでも自分らしく生きるべきか・・・随分思い悩みました。それでも私は私らしく生きる、そう決めたのです。それにしても涙って枯れないものですね。こっそりベッドで一人どのくらい泣いたことか・・・
私はこれから残りの人生、全てを失ったとしても女として生きる・・・その決断からすぐに1錠目のプレマリンを口にしました。
~カミングアウト~
家族に内緒で始めてしまったホルモン剤・・・やはり後ろめたい気持ちから沈みがちな顔をしていたのでしょう。パートナーから「隠し事があるやろう!言ってみろ!」と激しく詰め寄られました。遅かれ早かれいずれは話さなくてはならないこと、私は意を決して全てを話しました。これからの人生を女として生き、SRSも受けるつもりですと・・・
床に土下座し必死に訴えました。途中、涙が溢れて言葉にならない・・・それでも胸の中にしまい込んでいた全てを話しました。話し終えたとき彼女は神妙な顔をしたままピクリともせず、ずっと考え込んでいるようでした。暫しの沈黙・・・その沈黙を破ったのは娘でした。
彼女が娘に「○○ちゃん、女になるんやて」と話しかける・・・それに対し娘が返した返事は「ええんちゃう。女になっても○○ちゃんは、○○ちゃんや!」・・・その言葉が家族を形の上でも繋ぎ止めました。
同居はするが夫婦としては、今、終わりにしましょう・・・それが彼女が出した答えでした。それと、このとき自己責任で服用を開始したホルモン剤のことは、「どうして医師の管理下で投与しない!」と、こっ酷く叱られました。
お友達には携帯メールでカミングアウトしました。文章を考えてメールを作成しましたが、直ぐに送信する勇気がその時は持てなかったのです。
暫らくの間、未送信ボックスに保存してあったメールを意を決して送信したのは七夕の日だったと思います。直ぐに返信が届き、『明日、会おう』と言うことで次の日、お友達との待ち合わせ場所に向かいました。ドキドキして心臓が口から飛び出るのでは?と思うくらい緊張しました。
否定されたらどうしよう・・・お友達を無くすかもしれない・・・色々なことが頭の中を駆け巡りましたが、とにかく会おうと自分を奮い立たせ向かったのです。
それで・・・会ってみるとこちらが拍子抜けするくらいお友達は平然としていました。『いいんじゃない、そういう生き方も・・・他の連中には自分から話しておくから心配するな。もちろん他の連中にも、とやかく言わせないから安心しろ』・・・それがお友達からの回答でした。うれしかった・・・うれしくて泣き崩れてしまいました。
会社には正式にカミングアウトする前から、女性の服装をし、メイクも普通にして出勤していました。SRSが決まったとき、上司と相談のうえ会議で全員が集まったときに時間をいただき、正式にお話しさせていただきました。その時点から会社として、私を女性として扱ってくれることになりました。
~SRSを終えて~
こうして、あたしはフルタイム女性として生活していくようになり、バンコクのPAIで念願のSRSを終えた今は、本来の女性としての幸せをかみしめながら新しい人生を歩み始めました。
今は子供がいると戸籍の性別変更ができないという性同一性障害者特例法の改正を待っている状態です。あたしに彼氏がいるように、パートナーにも彼氏がいます。いずれそれぞれの幸せを求め、それぞれの道を歩むことになると思います。