2014年10月31日金曜日

ローマ法王の同性愛者への視線 (その2)

ローマ法王の同性愛者への視線(その2)

10月26日の投稿のあとCNNニュースに興味深い記事がありましたので、性的マイノリティに関するキリスト教とローマ法王フランシスコの言葉の意味を考えてみたいと思います。

この記事の寄稿者Jay Paniniは詩人であり小説家、バーモント州のミッドベリー・カレッジで教鞭もとる。最近「Jesus: The Human Face of God」の題名でイエスの伝記ともいうべき作品を発表された人物。

以下はパニーニ氏の寄稿の中で最近のローマ法王の言動に感する部分をとりあげて、法王の言葉の意味を再度確認したいと思います。

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同性愛結婚には断固として反対してきたアメリカのキリスト教徒にも最近ではこの問題への対応に変化の波が見られる。2016年の大統領選挙には出馬が確実視されている、言葉に衣着せぬ保守派の代表ランド・ポール氏さえも、地元サウスカロライナ州での最近のインタビューで「今までもずっとそうだったように、これはローカルな問題だ」と答えている。要するに、州単位、キリスト教区単位で決めればいいこと、ということ。

これはまた2013年に移動中の飛行機内でゲイをどう思うかという記者の質問に答えた法王フランシスコの短い言葉「Who am I to judge=私に誰を裁けというのか?」に象徴されている。

この短い言葉は驚くほどのインパクトをもっている。歴代のローマ法王は、同性愛を「道徳の根源的な退廃としての悪である」として糾弾してきたからである。

これはマタイ伝にあるイエスの言葉「裁くことなかれ、汝ら裁かれたくなければ」を敷衍した言葉である。この法王フランシスコの言葉は強力なインパクトのある教えであり、慈しみの心で人々に門戸を開いたもので、その扉は簡単には閉じられることはないだろう。

世界はめざましいスピードで変化しつつある。全米に強力な組織と影響力をもつ長老派教会は、州法で認められるなら教会の司祭が同性愛結婚を執り行うことができると決定したのである。この歴史的な決定はアメリカ全土で10,000におよぶ教会で同性愛者同士の結婚ができることを意味する。

監督教会派では2003年からすでに同性愛結婚を認めていて、初のゲイの司祭も選任した。しかしこれは教会派内部の亀裂を生む結果ともなり、所属教会のなかには離脱する教区がでるという会派内騒動も起こしたことがある。

肝心のイエスキリストは同性愛や性欲の表現についてどう考えていたのだろうか。マタイ伝のなかにイエスのよく知られた教えがある。「読んだ覚えがあるであろう、この世の始めに人間を造られたとき神は男と女に分けられた。それゆえ、男は産みの父と母のもとを離れ自らの妻と結ばれて二人はひとつの肉体となる。したがい、神が結ばれたものをまた二つに分断することは許されない。」

この詩文によりキリスト教徒の離婚を認めないという片寄った倫理観が伝統として根付くことになった。しかしこの規制は前世紀から必然であるかのようにゆるくなり、あまりにも多くのクリスチャンが離婚したので今やこの伝統は守られなくなっている。

ここで注目すべきはイエスがこの教えについてさらに質問されたときのこのマタイ伝の発言である。「この教えはすべての人に当てはまるわけではない、たとえばこの世に生を受けたときから性能力をもたない宦官(かんがん)、また他者より否応なく宦官にされた者、また自ら望んで宦官になり天の王国のために身をささげた者もいるのだ。これらを受け入れられるひとには幸あるであろう。」

アレキサンダー大王にもバガオスの名の男性の愛人がいて、彼は宦官としての記述がある。宦官はいろいろな意味合いで使われており、去勢だけでなく男性らしくない男や同性愛者もふくまれている。

創造主である神は創造されたあらゆるものに愛の目を向けられていて、他を裁き断罪することを好む者は容赦なく罰するのである。

イギリスの詩人ウィリアム・ブレークの詩にあるように「生きとし生けるものはすべて尊い」のである。

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この記事で私がいちばん注目したのはイエスの言葉「生まれたときよりそうであった宦官」である。 聖書には同性愛者という言葉はでてこないが、宦官が性的マイノリティの代表者になっているのかもしれない。

「生まれたときよりそうであった・・・」はLGBT全般にあてはまると私は思っていたので、それがイエスキリストに認められたようで大変勇気付けられた。宦官がそうなら、「L」も「G」も「B」も「T」もこの世に生まれたときからその指向が脳内にインプリントされて生まれてきたのである。決して病気(Disorder)などではない。

しかし、性自認と身体が一致しないトランスジェンダーはGID(Gender Identity Disorder=性同一性障害)として治療のための便宜上病気として扱われてきたが、2年前にアメリカで開かれた国際学会で単なるGD(Gender Dysphoria=性違和感)と称することが決定されている。生まれつきの性自認と身体が一致しないための違和感の苦しみにくわえて、家族もふくむ世間の理解がないため増幅される違和感をどう克服していくかが課題である。

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2014年10月26日日曜日

ローマ法王の同性愛者への視線

ローマ法王の同性愛者への視線について

10月20日の日経新聞に目立たない記事が目に留まりましたので、ちょっと感想を 述べてみます。記事の表題は「カトリック教会、同性愛者への寛容案見送り」です。

ローマ法王フランシスコはイタリア系移民の子としてアルゼンチンに生まれ、労働者階級のなかで育ったという生い立ちのためか庶民感覚にあふれ、カトリック総本山のバチカンに新風をおくりこみ、つぎつぎと改革にとりくんできた。大げさにいえば現代の宗教改革ともいえるその行動力には世界が注目していた。

その1つのテーマが同性愛などに対する寛容な態度だった。カトリックの信者や神父、バチカンにも同性愛者はいるからでもあり、この問題は無視できないと直視しようと思われたのであろうか。その勇気と決断を実行に移すスピードには、部外者ながらハラハラしつつも感嘆していた。

今回のニュースは、離婚したカトリック信者や同性愛者に寛容な姿勢をしめす内容の、法王主導でとりまとめた中間報告が「世界代表司教会議」でそのまま採択される見込みであった。その中には「同性愛者を歓迎する」との項目があり、「同性愛者もキリスト教社会に貢献できる才能と資質がある」との文言が盛り込まれていた。

「神の御計画」を破壊する企てとして同性愛や同性婚を禁じるというカトリックの教義は肯定するものの、現実の社会に生きる同性愛者の人間としての権利には配慮しなければいけない、とする中間報告書での歴史的な方針転換が将来への期待感として注目されていた。

ところが10月18日バチカンで開かれた200人近くの枢機卿や司教で構成される世界代表司教会議でその歩みよりの文言が多数を占める保守派の抵抗にあい、同性愛者への姿勢を変えると解釈される文言は削除せざるを得なくなった。これが改革を進める法王の初の後退となったのがニュースの主眼である。

ここで宗教にはとらわれない私には合点がいかないことがある。なんでこんなことが大騒ぎになるのか。LGBTと称される性的マイノリティーは、当事者本人が好んでなったのではない。生まれながら備わっていた性自認がある時期に発現するのであって、他人や社会の影響をうけて自ら選んだのではない。その性自認が自覚される年齢には個人差があるだけで、人種や文化が違ってもこれは共通している。これが文化の異なるLGBT当事者と接触してきた私の経験的な結論である。

さらにキリスト教やイスラム教などの宗教の拠りどころとなる聖書や法典には同性愛についての記述はない。この世には男と女、オスとメスしか造られていない、だから旧約聖書の神の御言葉「産めよ、増えよ、地に満ちよ」にいそしむのが人間や動物の役割だとされてきた。

同性愛では子は産まれない、そのような行為は神の意志に反するものである。これがキリスト教、イスラム教にも共通した道徳観である。

しかし現実社会では同性愛者として生まれてくる子供がいる。それが母親の胎内にいる間に方向付けされたもので誕生後に身につけた性自認ではない、という事実には宗教は眼をつむり耳を閉ざす。医学的にも未だに解明されていない。そこに社会的な偏見がはびこり、人間として生きる権利や場が制約される。

そこで誕生前から潜在する性自認をもつ同性愛者をなぜ神が造った人間として認めないのか、バチカンから広い世界に問いかけるべきではないでしょうか、とローマ法王にも言いたかったのですが、、、、。

しかし実際にはフランシスコ法王ご自身はすでにご承知のこと、自らは同性愛者を同じ目線で見ている。民主的に運営される世界代表司教会議で反対する多数派を説得するには段階をふんでやらないと一足飛びでは大ケガをすると、、、。

一年後にはまた機会がめぐってきます。LGBTも神が造られた同じ類の人間です。がんばってください。陰ながら応援しております。

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2014年10月8日水曜日

HRWレポート日本語訳

HRW レポート日本語訳

10月2日の投稿記事でマレーシアのトランスジェンダーの新聞記事を 紹介しましたが、マレーシアのTSの友人からすでに日本語訳があると いうメールが入りました。

ヒューマンライツウォッチ東京からも許可を得ましたので、その日本語訳 サイトを以下にそのまま転載させて頂きます。

http://www.hrw.org/ja/news/2014/09/24

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2014年10月2日木曜日

LGBTが虐待されるマレーシアの現状

トランスジェンダーを虐待するマレーシアの官憲

Human Rights Watch(HRW)が報告するマレーシアの現状 (2014年9月25日版Bangkok Post紙掲載のAFP記事より翻訳)

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(クアラルンプール発)マレーシアのトランスジェンダーたちは組織的な抑圧、挑発行為、虐待に日常的に遇っていて、政府は早急にトランスジェンダーのライフスタイルを犯罪扱いする法律を撤廃しなければならない、とアメリカを本拠とするNGO人権監視団体のヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)が最新の報告書を発表した。

      (HRWレポートに見入るマレーシアのTSたち)

Human Rights Watch(HRW)の発表した詳細なレポートによれば、東南アジアでもイスラム教徒が過半数をしめるこの国ではトランスジェンダーたちの直面する人権侵害行為は悪化の一途をたどっている。

その中には逮捕、襲撃、官憲による強要、強奪、公衆の面前で女性の衣服を全部脱ぐことを強要するなどトランス女性をはずかしめる行為、健康・医療、雇用、教育機会等に対するさまざまな障壁がたちはだかっている。

この人権団体でレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスセクシュアル(LGBT)の人権擁護推進を担当するボリス・ディトリック氏によれば、マレーシアでは保守的なイスラム教信奉者の影響が加速的に強まっているためにトランス当事者の状況は悪くなるばかりである。

「簡単に言ってしまえばトランスジェンダーであるだけで逮捕されるということ。こんなひどい状況は他の世界中のどの国を廻っても見られない。」

「この国の加速するイスラム化の現状とぴったり一致するのだ。」

マレーシアは元宗主国の英国の法律にもとづく民事法廷があるが、その一方でイスラムの教えへの遵守を規定するシャリア法によるイスラム法廷も存在する。このイスラム法は人口の6割を占めるマレー人だけに適用されるもので、マレーシア人でも中国系やインド系の非イスラム教徒には適用されない。

シャリア法とよばれるイスラム法では男が女の服装するだけで、最高3年までの懲役刑が科せられる。また州により、とくに保守的な東海岸の州では、女性によるクロスドレシングも同様に罰せられる。

HRWによれば、男として生まれながら女性としての感性をもつトランス当事者たちは、イスラム法を強要する官憲(宗教警察)の手によるさまざまな肉体的、性的な迫害にあっている。

73ページに及ぶ同団体の発表したレポートでは、そのような人権侵害を体験した何十人もの当事者へのインタビューが掲載されている。

そのひとりヴィクトリアは言う。「わたしはたとえようもない恥辱をうけました。公衆の面前で全裸にされ、身体をあちこちいじられたのです。」

「大勢が見ている前です。中には裸にされたわたしの身体の写真を撮っている人もいました。」

3人のトランスジェンダーが原告となった裁判が注目されている。クロスドレシング法は差別的であり憲法違反であるとの根拠でマレーシアのある州で同法を廃止するよう裁判に訴えているのだ。

HRWグループのディトリック氏は声明を出し、「マレーシアのトランスジェンダーたちは日常的に逮捕されるリスクを負わされている。その一方の加害者ともいえる官憲は相手をどのように扱おうとも一切の責任を問われないのである。」

同性愛も事実上は不法行為とみなされ禁止されており、同性同士の性行為は最高20年の懲役刑が科せられる。

人口3000万ほどのマレーシアの約60%はイスラム教徒のマレー人であるが、歴史的には穏健なイスラム教の国であった。それが最近になり特定のイスラム教勢力の保守化傾向がさらに勢いを増す傾向が続いている。宗教的にも民族的にもマイノリティであるグループや他の批判グループからはひんぱんに警鐘が鳴らされているが、政府は対応に手をこまねいていて見て見ぬふりをしているのが現状。

(以上AFP記事より) **********

<私的感想>

マレーシアには宗教警察という他国にはみられない警察機構がある。今年の3月、数回メール通信していたマレーシアのTS女性と東京で会うことができた。彼女からもその宗教警察の話を聞いていて、はっと息を呑むような残酷な仕打ちを受けたTS女性の写真も見せられていた。

そういう背景もあったので過去何十回も訪れているマレーシアのトランスジェンダー事情には興味をもっていた。8月末にクアラルンプールを訪れた際その女性のアレンジで、現地のTSたちが安全に集まれる場所でSRSのオリエンテーションとQ&Aの集会が開かれた。10人ほどのTS当事者たちと親しく話す機会が持てたのは私にとっても貴重な体験となった。一人は母親同伴で別途カウンセリングもしたが、母親は娘の手術には賛同しているとその場で感じとれた。

その直後にバンコクに来た彼女をプリチャー先生に紹介し、今や親友となったその女性をマレーシアの窓口としてPAIとのコーディネーター役も引き受けてもらったのも望外の収穫だった。彼女もプリチャー先生の寛大で温情あふれる人柄に感激した様子で、真心のこもった感謝のメールをもらった。

帰国後まもなく参加者の3人がPAIで手術したいということで、すでに具体的な日程まで決めているとの連絡があったのには驚いた。これには経済的に苦しい生活を強いられているマレーシアのTSには特別価格を提供するというPAIのプリチャー先生の配慮も大いに力となったのはもちろんです。

マレーシアのTSたちの多くが国境に近いタイ側の町やバンコク裏町のうらぶれたクリニックでSRSを受けているのはその親友から聞いていた。値段が安いのが最大の理由です。バンコクのPAIはよく知られているものの、彼女たちには「5スター」クラスで手が届かなかったのです。

東京に帰って間もない9月25日のバンコクポスト紙のこの記事を見て早速クアラルンプールの彼女にも知らせてあげた。まずマレーシア現地の大手マスコミは政府に遠慮してこのようなニュースは取り上げないと思ったからである。半面、隣国のタイではマレーシアのTS関連のニュースは英字紙が取り上げることがよくある。

その親友からはさっそく返事があり、TSコミュニティ全員がHRWレポートに歓喜の声をあげて、今後も権利獲得の闘いを続けていくことを誓ったそうです。話せばわかる相手ではない宗教警察にだけは気をつけてね!

HRWの報告書のコピーが届いたら、その内容の詳細を翻訳して報告できると思います。

(島村記) *****