2007年3月29日木曜日

現地と帰国後のパーソナルケア


事前のカウンセリング

手術のために外国に行くには、かなりの勇気と決断がいります。手術自体が不安なのに、タイのことなどほとんど予備知識がない。タイ語はもちろん、英語もおぼつかない。入院中の医療ケアはともかく、帰国までの2週間は誰か個人的な面倒見てくれるだろうか。相談相手になってくれる人がいるだろうか。

病院の設備や看護ケアなどは大丈夫か。SRSに実績のある医師がいるのか。病院からホテルに移った後のケアは。回復期間中はどうやって過ごす。和食レストランはあるだろうか。帰国前には観光や買い物もしたいが・・・。

表だっては話題にできない手術のために、外国に行く。しかも東南アジアの発展途上国へ。タイでの手術は経費面では安いとはいえ、面談やメール、または電話による事前のカウンセリングなしに外国での手術を決断するのにためらいがあるのは当然のことです。

私のPAI認定のカウンセラーの役割はまさにこのためにあります。

帰国後のアフターケア

SRSは手術さえ無事に終わればそれで終了というわけではありません。PAIの熟練した医師チームの手術はわずか3時間で終わります。5日後には退院して、その10日後には帰国できます。これで基本的には医師の役割は終わりますが、帰国後のダイレーションなどの長期間の作業は患者さんの責任で行わなければなりません。外部の手術跡や内部が安定するには3ヶ月、6ヶ月、場合によっては1年という期間が必要です。

医学界の常識として、どんな手術でも完璧ということはありません。帰国後の回復期間中に不安な症状や、医師の見解を聞きたいことは大なり小なりでてきます。ほとんどのケースは時間の経過が解決する問題ですが、患者さんに立場からは心配事であることにはかわりありません。その場合には日本語で相談できる、また必要に応じてPAIの医師からの指示を仰げる仲介役が必須です。その役割もPAI認定のカウンセラーの私の守備範囲です。PAIのプリチャー医師と過去2年半以上にわたり、信頼関係を築いてきたことがお役に立てると自負しております。

[カウンセラー料]
私はいわゆる「エージェント」ではありませんので、基本姿勢としてSRSに関してはPAI以外の医療機関を紹介することはいたしません。SRSカウンセラーとしてのサービス料は頂きますが、個々のケースにより異なりますのでご相談に応じます。以下にメールでご連絡ください。
Email: masa.shimamura@gmail.com

2007年3月22日木曜日

GID情報はまず出版物から

性同一性障害ではないか、と自覚したらまず、今の自分がどういう立場におかれているのか、ロードマップ上の位置確認をすることが必要です。無用な悩みをできるだけ少なくして、自らの方向性と目的地へのステップを早く見つけ出し行動に移るためです。

自助グループも各地にありますが、出版物は日本のどこにいてもオンラインショップで簡単に手に入る時代です。特定の本を推薦することはしませんが、以下のリストを参考にして、ご自分の状況にあった本を選んでください。自らのGID体験を出版されたこれら当事者の方々の貴重な情報や体験談は、将来への指針と大きな勇気を与えてくれることでしょう。

GID関連出版物のリスト

出版物のリストは右のサイドバーに掲載することにしましたのでご覧ください。

2007年3月17日土曜日

SRSに至る道・母親への手紙(その2)

『リンダから母親への手紙』 (その2)        

結婚と家庭生活
最初の妻と分かれてから、とても親しかった別の女性と親密な関係になりました。その女性と恋に落ちたのは、私にとって一番ふさわしいパートナーであり、私の人生の魂の友であると感じたからです。それが今の妻ジェリです。ジェリに対する愛情にもかかわらず、自分が女性であるという感情からはどうしても抜け切れませんでした。ジェリと私は結婚し、二人にとって当然の帰結だと思い、自然な気持ちから子供をもうけました。二人とも家族が欲しかったのです。そして私は自分の中の女性と闘うように以前にも増して努力するようになりました。

警察官の仕事柄で、世間にはホモが大勢いることも知りました。クリスティーン・ジョーゲンセンの記事も読んだりしましたが、実際は性転換手術にそんなに大金はかからないことや、アメリカでも行っていることなど、性転換ということ自体についても新しい知識を手に入れました。女装をすることも必死になって抵抗したものの止めることはできず、完全な女性になりたいという気持ちも同じでした。その内に妻ジェリが気づいて去っていくことを恐れ、必死になって自分と闘いました。ジェリに対する私の愛情が揺らいだことは一度もないことは、お母さん、信じて欲しいのです。

ジェリと家族を失いたくないため闘い続けた私は、勤務を離れると男の中の男にふさわしいと思われたバイク乗りになり、大酒を飲み、勤務中は危険な任務に進んで志願したりしました。しかし、こんな男っぽい行動はどうしても好きになれなかったし、そんな男に変わっていく自分という人間も好きになれませんでした。1990年にサウスダコタ州で催されたモーターサイクルラリーに参加し、アウトロー・バイククラブの連中と親しくなりました。オトコになるためには無法者のバイカーにならなければと思うと怖さ半分でしたが、アウトローのバイカーより男臭いオトコがいるか、心の中の女性感情など吹っ飛んでしまうぞ、という気持ちで突っ走りました。

ところが、このグループの行動でどうしても好きになれない行為を見たりしているうちに、自分はやはりとけ込めない仲間だと感じるようになりました。こうしなければオトコになれないのだったらもうオトコになるのは止めようと決心したのです。家に帰ると8年間つとめたモーターサイクルクラブの支部長をやめ、愛車のハーレーダビッドソンと付属品一式も売り払いました。あらゆることをやったにもかかわらず、女性であるという感情は依然として居座っていました。この悩みについては参考になる情報もなく、どこからも助けの手は来なかったのです。

お母さん、私の心の中の女性感情はますます激しくなり、このまま生き続けるのは我慢できない、なにか行動を起こさなければ、という気になりました。もうためらっている余裕はなくなりました。お母さん、私はただ内面の苦痛から解放されて幸せになりたかっただけです。本来の自分になりたかったのです。

私には依然として、自分はトランスセクシュアルという感情をもつ世界でも数少ない人間の一人にちがいないという気持ちが残っていました。だれにも本当のことは言えないという恐れでそれまでの人生を過ごしてきた私ですが、人生のパートナーである妻ジェリには本心を打ち明ける決心をしました。彼女が去って行かないことを祈りながら打ち明けました。そのジェリが愛情にあふれ、思いやりのある、強い心の支えとなる態度を示してくれたのは何よりの救いでした。行き着く結果がどうなろうと、私が本来の自分を見つけられるように何でも協力すると励ましてくれたのです。

行動開始
それから私たちはゆっくりと行動を起こし始めました。まずクロスドレシングを試してみましたが、鏡に映ったその自分の姿を見て顔色をなくしました。ジェリに手助けをしてもらったとはいえ、体がでかく、老けすぎで、男そのままという感じで、とても女性らしい姿ではなかったのです。気分が滅入りましたが、最初の幻滅にめげずにジェリと私は参考になる情報を求めて前向きに進んでいきました。

そのうち警察署の仕事では暴力犯罪班に配属になり、性犯罪捜査を担当する刑事になりました。ある日任務中に訪れたアダルト書店で、たまたまジェリも一緒だったのですが、クロスドレシング専門の雑誌を見つけ買い求めました。その雑誌のおかげで今まだ知らなかった世界に導かれ、本・雑誌、心理学的論文、個人の体験談、サポートグループ、社会活動グループ、医学関係者、病院・クリニックなど、この問題に関連する多くの存在を知ることになりました。

ゆっくりではありましたが、私たちはあらゆることを勉強しました。自分が単なるクロスドレサーではなく実際はトランスセクシュアルであるのに気づくにはそんなに時間はかかりませんでした。それは私がいつも感じていた感情そのものでした。そこで精神分析医、二人のカウンセラーの診断を受けたのち、やっと医学面での治療を始めることになりました。自分の心の中でいつも感じていた女性にマッチする体に、男の体を変えていくための準備を始めたのです。

SRSへの具体的ステップ
いま私の受けている性別再指定の治療法はゆっくりしたプロセスで、いろんな分野の医者や精神科医のチェックを受けなければなりません。私自身の最終目標ははっきりしていますが、医学関係者の方から次のステップに進むのを勧めることはなく、あらゆる資格条件をクリアした段階で本人が希望した場合にだけ、最終目標のSRS手術が許されるのです。

今の私は1995年8月から始めたホルモン治療により性別再指定を受けています。女性ホルモン剤のプレマリンと、男性ホルモンの産出を抑制するステロイド剤であるスピロノラクトンを服用しています。その結果、今まで不可能だと思っていた自分のイメージが目に見えるようになり、あの大柄の、老けた、男にしか見えない、という以前の感じはなくなり、不可能が可能になったのを感じます。自分の願うようには美しくはなれないとしても(まあしょうがないか)、女のドレスを着た男でなくなったことは確かです。

お母さん、この私の状態について親として負い目や責任を感じたりする必要はまったくありません。現時点での科学的な研究では、性同一性障害やトランスセクシュアルの原因としては、誕生前の胎児段階でのホルモンの影響やホルモンバランスの問題が指摘されています。その結果として身体的には一方の性の特徴をもち、性意識としては別の性の特徴をもって生まれてくる個々のケースがあるということです。性転換症についての最新の研究発表のどれを見ても、私のような症状の原因が誤った育児方法にあると指摘するものは皆無です。

この40年間というもの、心の中では女と感じていたので、自分をとりまく現実は不快であったものの、どうすることもできませんでした。ところが今では、かってなかったほど幸せで気分も楽になりました。精神的な苦痛もなくなり、いろいろあった健康上の問題も消えてしまいました。

お母さん、私のような症状は時間をかけて何回も何回もチェックし、さらにダブルチェックするという課程を踏んで治療しなければいけません。また途中でいつでも治療の過程をストップしてもかまわないし、中止するのを勧められる場合さえあります。自分で違和感をもつ場合にはそれを越えて先には進まないように指導されます。私の場合はそれらの関門を順次通過して今の地点まで到達したのです。

お母さん、参考までに今私のたどっている道程はこんなものです。
ジェンダーの問題に精通している精神科医に定期的に診断を受けること。SRS(性別適合手術)の許可の前には別の医師からのセカンドオピニオンを得なければなりません。ホルモン治療による性別再指定はすでに1995年8月から行っていて、今も続けています。

電気分解脱毛法による顔面の脱毛は痛いだけでなく時間がかかります。1ヶ月に6時間にまで減らせるようになりましたが、やっと50%終わった段階です。

リアルライフテスト。生活のすべての面で一日24時間女性として生活しなければなりません。これはSRS(性別適合手術)を受ける前に、女性としての生活に適応できるように準備するためです。

名前変更。これはいろんな法律的理由で実現が長引いていましたが、この夏の終わり頃には有効になります。(登録申請はもう済んでいて裁判所預かりになっています。) 今使っている名前はリンダ・アン・シンプソンですが、これが登録される正式の名前となります。

SRS(性別適合手術)。これは単なる整形手術だと思ってもらって結構です。1997年までは手術に進むつもりはありませんが、この手術の経験のある医師の何人かとはすでに連絡をとっています。世界中で30人ほどいますが、私なりに下調べをして何人かのお医者さんを検討して、今のところ一人か二人に候補をしぼっています。

お母さん、この手術は男を女に転換する手術ではありません。そんなことは不可能です。この手術は赤ん坊として生まれた時点での間違いを訂正しようとする試みと理解してほしいのです。また、これはセックスに関する問題でもなく、ジェンダー(性意識)に関するものです。セックスはこの問題とは関係なく、世間一般で言われているように、「セックスは両股の間にあるもので、ジェンダーは両耳の間にあるもの。」 ちょっとふざけた表現だとは思いますが、それは真実をついています。

このような告白を聞いたショックで、お母さんはどうしたらよいか途方に暮れているかと思いますが、お母さんの気持ちがよく分かるなどと軽々しく言うつもりは全くありません。同じように、他のトランスセクシュアルの人ならともかく、私が今どういう気持ちで生きているか、またこれまでどのような行き方をしてきたか、完全に理解してもらえるとはとても思えません。繰り返しになりますが、お母さんに言いたい一番大事なことは、私のこの症状はお母さんやお父さんには何の原因も責任もないということです。正直なところ、このジェンダーの葛藤があったことを除いては、とても幸せな子供時代を過ごせたと思っています。

私の友人や家族、それに職場の同僚などからはリンダとして受け入れられていて、気まずい反応はありません。ほとんどの場面で周囲から前向きな反応があるので、私自身うれしいと同時にびっくりしているほどです。また幸いなことに、最近では時代の雰囲気も変わってきていて、人々の受容度もひろくなり理解する人も増えました。ガンや糖尿病などの病状をもつ人を悪く言わないと同じように、私のような症状に偏見をもつ理由はないはずです。それでも、ある種の人たちとはトラブルに遭遇することも現実的にはあり得ることは承知しています。今までの人生で経験したいろいろな障害にくらべたら、これから起こりうる障害物を乗り越えるのは何でもありません。

ジェリも三人の子供たちも全面的に応援してくれています。これから起こりうる良いこと、悪いこと、みんなで話し合いました。将来に何が待ちかまえていようと直面する心の準備はできています。これ以上の素晴らしい人生があるでしょうか!
お母さん、このことのために私を見捨たり、愛するのをやめることのないように祈っています。私の状況をお母さんが簡単に受け入れてくれるだろうとは期待していません。ただ、むずかしいことはわかりますが、理解するように精一杯努めてくれることをお願いするだけです。

お母さん、ありがとう。愛している。リンダより。
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『リンダ・アン・シンプソンのその後」

リンダは1982年以来ジェリと正式に結婚して、3人の子供にも恵まれた幸せな家庭をもっていたものの、幼児期から自覚していた性同一性障害に悩まされ続け、愛妻ジェリの全面的なサポートを得て1997年1月にカナダのモントリオールで性別適合手術を受ける。現在は家族全員で、性的少数者に寛大なワシントン州シアトルに住んでいる。リンダは古巣の警察関係のアドバイザーなどの奉仕活動や、性的少数者に関する啓蒙活動、好きなジャズやニューエイジ音楽演奏などの生活を楽しみながら、ソフトウェア・テスト・エンジニアとしての仕事もしている。

妻ジェリはもともと大好きだったコンピュータをさらに勉強し、今はソフトウェアエンジニアとしての仕事と、リンダと学校に通う三人の子供たちとの家庭生活をエンジョイしている。

リンダの母。リンダが手紙を書いたその母親が、手術2年後の1999年に訪ねてきた。今や娘になった元息子とは何年も会っていなかったが、いろいろあった母親との気持ちのすれ違いも年月が解消してくれ、愛情に囲まれたリンダの家族とふれあった母親は心から再会を喜んでくれた。ただ一つの大きな意見の食い違いは、着る物とファッションのことで、母親と娘の世代の違いはどうしようもなかったそうである。


『クリスティーン・ジョーゲンセン (1926-1989)』

クリスティーン・ジョーゲンセンはデンマーク系のアメリカ人二世、ジョージ・ウィリアム・ジョーゲンセンとしてニューヨークに生まれ育つ。1952年から1954年にかけデンマークでホルモン治療に続き男性から女性への手術を受けた。性転換手術を受けた最初の人ではないものの、初めてマスコミにより公にされセンセーションを巻き起こした人として歴史に名を残す有名人になった。

また彼女の美貌と優雅な立ち居振る舞いを生かして、歌手としてもラスベガスやハバナでなどで名声を博する存在となった。その後の彼女の自叙伝(1967年刊)やその映画版(1970年公開)、各地での講演などの活発な啓蒙活動を通して、性転換症(トランスセクシュアル)は、同性愛者(ホモセクシュアル)や異性装者(トランスヴェスタイト)とは明確な違いがあることを訴え続け、世界の性同一性障害者を勇気づけた。二回の婚約歴はあるが、生涯結婚はせず、最後の2年間はカリフォルニアに移り住み、62歳で肺ガンと膀胱ガンにより世を去った。

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(翻訳文責: 島村政二郎)

2007年3月16日金曜日

SRSに至る道・母親への手紙(アメリカ人)

GID当事者のカミングアウトまでの道のりは、文化・人種の違いをこえて共通する場面が多くあるのには驚くと同時に共感を覚えます。以下、このごく普通のアメリカ人のたどったSRSまでの遠かった道のりをご紹介します。

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『リンダから母親への手紙』 (その1)        
(1996年6月20日。SRS手術前に書かれた手紙)

お母さん、このことは電話で言うには込み入っているので手紙の方がいいと思い書くことにしました。以前にちょっとだけ話したことがあるけど、私の症状は正式には性同一性障害というもので、普通はトランスセクシュアルと呼ばれています。話したいことはもっとたくさんあったのですが、なぜかお母さんとは真剣に話す機会がなかったのですよね。どれを取り上げても言いにくいことばかりで、私にとっては一生の葛藤として心の中で闘い続け、また隠し続けてきたことなのです。自分でも思った以上にうまく隠し続けられたとは思うけど、時には極端にはしる行動にはお母さんも気がついていたように、それは私にはとてもとても苦しい葛藤でした。

私のこれからの話は、内面奥深くにある感情や恐れの入り交じったことで、私自身も人生この時期になってやっと納得できるようになりました。お母さんには本心を打ち明けますから、できるだけ理解して気持ちを分かちあって欲しいと願っています。

幼児期の記憶
幼児期の早い時期から私は自分が女性だといつも感じていました。記憶に残っているのは2歳のときからで、その記憶は女の子のとしての記憶がほとんどです。具体的に時期のはっきりしている記憶は1957年の4歳の誕生日のものです。その時まで自分は女の子だと思っていましたが、突然その思いが打ち砕かれる出来事があったのです。その日はおばあちゃんの農場のベッドルームにいて、おばあちゃんが着替えしているときにパットおばさんが入ってきて、男の子の目の前でおばあちゃんがトップレスでいるのを見て、腰を抜かさんばかりに驚いたのです。その時のパットおばさんの騒ぎ様は想像にまかせますが、このとき初めて自分がずっと思っていたような女の子ではないと思い知らされたのです。

その次に記憶に残っているのは1959年の5歳のときです。それまでにも女の子であるという自覚はありましたが、この頃私はまだ小さかったものの、お母さんやお父さんが留守のときや眠っているときに、お母さんの服を着て自分が女の子であると想像しながら遊んでいたのです。サイズはぜんぜん合いませんが、大人になったらどのように見えるか想像をたくましくしていました。

パットおばさんとの最初の事件のこともあり、こういうことは普通ではないと感じていたので、お母さんやお父さんをはじめ誰にも話しませんでした。また自分が女の子であるとか女の服装をしたいという気持ちを抑えようとしましたが、このような感情を押し殺すのはどうしてもできませんでした。女の服装をすることで(クロスドレス)、ずっと内面で感じていた女の子の感じを実感として味わうことができたのです。

女の子であるという感覚と女性としての自分を表現したいという欲求は、大きくなるにつれて強くなっていきました。自分のような症状について知りたいと思っても何の情報もなく、年若い子供には手のとどく情報源も限られていました。それでも自分がなにかの病気で、どっかがおかしいとは感じていたので、だれにも話さず自分の中だけにしまっておきました。

学校生活
ヘシアスクールの6年生だった12歳のとき、クリスティーン・ジョーゲンセンという人が1953年に性転換手術を受けたことを知ったのです。どこからその情報を聞いたのか記憶にないのですが、彼女に関する情報を探し始めました。その夏にマウントプレザントの図書館でクリスティーンの半生を書いた本を見つけ出すことができました。ひと月の間図書館に通い、その本を少しずつ読んでいきました。借り出すこともできたのですが、係員にその本の内容がわかってしまうと、私が性同一性障害だと見破られるのがこわかったのです。クリスティーンについての本に完全に魅惑された私は、ついにはその本を図書館から盗んでしまいました。

この本を読んでからは気分が高揚してきました。こんなことが実際にあること、また何か直す方法があることがついに分かったからです。十代に入った頃の私には大きな希望となったのです。もし私の「障害」がもっと悪くなったとしても、もう少し歳をとれば何か直す方法があるだろうこと、またもう自分一人ではないと分かったことが大きな救いになりました。

ただ毎日の学校生活はちがった世界で、みんなと同じことをし、同じような行動をとることを期待されました。自分の内にある女性と闘うように努め、男性であることを証明しようとしました。あらゆる努力にもかかわらず女性であるという感覚は日増しに強くなっていき、この心の葛藤が私の人生をみじめなものにしたのです。

私は他の男の子のするスポーツや乱暴な遊びにはぜんぜん興味を引かれませんでした。気乗りのしないままやってみましたが、スポーツには向いていないことが分かっただけです。女の子と遊んだり、おしゃべりするのが好きだったけど、10代そこそこの女の子はまわりに男の子がいるのをいやがったし、男の子たちはまた女の子と遊ぶ私を見るとさんざんからかっていじめる。私も恰好をつけるため、10代のはじめには「女の子なんか大嫌いだよ」と虚勢を張っていたものの、本心は女の子の仲間に入りたくて悶々としていたのです。

まわりの男の子たちに自分の男らしさを見せつけるため、13歳になった私はタバコを吸い始め、スティーブや他の荒っぽい男の子たちに交じって、ちょっとした盗みや空き巣のような犯罪行為もしました。タフな男の子だと思わせたかっただけですが、やはり心の中の女性としての意識はぜんぜん変わらず、盗みまでして男になるのはよくないと気づき、そのグループからは離れました。

高校を卒業すると、髪を長くのばし音楽バンドの一員として数年間を過ごしました。長い髪の毛だけでなくミュージシャンとしての生活、またその時代の服装の自由さがありがたく、外見は女性らしく振る舞えたので、私の人生の中では非常に快適な時期でした。私の付き合った人たちは大変大らかで、みんなと仲良くできました。バンドのメンバーの何人かはホモで、少なくとも一人はバイセクシュアル(両性愛者)、残りは普通の異性愛者でした。性的指向や個性は違っていても、みんなが仲良く暮らすことができました。

大学時代
私の大学時代は音楽中心生活の延長として大変楽しく過ごせました。ただ変わったのは女性たちと「ガールフレンド」の関係ができて、女の一員として振る舞えるようになったことです。その女友達とはキスやセックスなどとは関係なく、ただ友達同士として一緒の時間を過ごし、おしゃべりしたり、ショッピングに出かけたり、内緒話をしたり、同じベッドで寝たこともありました(パーティのあとでザコ寝するようなセックスなしの関係です)。シャーロットとはとくに仲がよく、一緒に寝てもセックスなどは考えたこともないような本当の意味の親友関係でした。

バンドのメンバーを除いては、私の友達はみんな大学生の女性だけで、私の人生ではとても幸せな時期でした。心の中で私がどう感じていたかお母さんはぜんぜん気がつかなかったと思いますが、それは私が言わなかったのが悪いのです。もっと前に言っておけば、今になって大きなショックを与えることもなかったと思います。でも、最近になるまで怖くてだれにも話す気になれなかったのです。

大学にいる時に性同一性障害者や性転換手術についての情報を調べ始めました。今でこそ私はその存在を知っていますが、それまではぜんぜん情報もなく知識もなかったのです。その当時の私の頭で考えられることは、遠いヨーロッパまで行って性転換手術を受けること、それには恐らく10万ドル以上のとてつもないお金がかかることぐらいでした。自分の体を女性に戻せない、しかも自分を女性としてしかイメージできない心の中を考えると、出口をふさがれたような、とても重苦しい気分が続きました。

大学時代には心理学を専攻して学位も取りました。それは実際には、自分の心の中の女性としての感情を説明するための勉強であり、自分自身を治療しようとする試みだったと思います。ところが、1970年代の心理学というのはひどいものでした。性転換症やジェンダーの問題についての情報は非常に限られたもので、性転換症についてのわずかな解説は「異常心理学」としてしか取り上げられていないのです。異常心理と言われては気分が滅入るばかりで、ますます心の中で救いのない葛藤を強いられました。人類学にも興味があり学位も取りました。人類学はジェンダーの問題なども含めた人間の多様性を研究するもので、心理学で異常心理としてレッテルを貼る考え方に抵抗するのには大いに助けになりました。

大学在学中に結婚しましたが、最初の妻には私の心うちは打ち明けませんでした。妻の気づかないように彼女のドレスを借りて女装したりもしました。この時期に私はもう一方の極端に走ることになり、自分が男であることを証明するため、こともあろうに私は警官になったのです。警官ほど男臭い仕事はないですよね。しかし、これは思惑通りにはいかず、ぜんぜん助けになりませんでした。心の中の女性は消しようがなかったのです。

(長文のため2回に分けて掲載します)
(翻訳文責: 島村政二郎)